第6話 影の歩調
ミナは、ルシアからもらった高山植物の花を枕元に飾っていた。
その清らかな香りは、部屋の空気をやわらかく包み込み、ミナの顔色は日ごとに回復していった。
閉ざされていた窓から差し込む光が少しずつ柔らかく映えるようになり、彼女の笑顔も増えている。
ホロは安心しながらも、胸の奥に沈む不安の影を振り払うことはできなかった。
――あの日、路地の影で感じたわずかな動き。
それは幻ではない。気のせいではなかった。
その確信が、日に日に強まっていくのを彼自身が感じていた。
夕暮れが街を覆い始めていた。
石畳の通りには橙の光と長い影が交じり合い、行き交う人々の足音が乾いた響きを残している。
花屋「ミモザの庭」の中も、昼の賑わいが落ち着き、しんと静まり返っていた。
店の片隅で花の手入れをしていたホロは、ふと視線を窓に向ける。
そこに、通りを歩くルシアの姿があった。
彼の姿を見ると、不思議な安堵が胸を満たす。
しかし次の瞬間、ホロの目は背筋を冷たくするものを捉えた。
ルシアの数歩うしろ――。
背を丸め、顔を深くフードで覆った男が、一定の距離を崩さず歩いている。
人混みに紛れてはいるが、その動きには不自然な均一さがあった。
ルシアがさりげなく振り返ると、男は露骨に視線を逸らし、看板の陰へと身を滑り込ませた。
ざわり、とホロの胸が波立つ。
花ばさみを握る手がじっとりと汗ばみ、鼓動が速まる。
そのざわめきに突き動かされるように、ホロは花ばさみを置き、戸口を押し開いていた。
「ルシア!」
声が夕暮れの通りに響く。
ルシアが足を止め、こちらを振り向いた。
その表情はいつもと変わらぬ柔らかな微笑みを浮かべていたが、瞳の奥にはわずかな緊張の色があった。
ホロが駆け寄ると、ルシアは小さく息を吐き、低い声で言った。
「……付けられていましたね」
「やっぱり知ってるのか。誰なんだ、あの男」
「まだ分かりません。ただ……彼らの視線は、あなたからも離れていないかもしれません」
その言葉に、ホロの背筋が冷えた。
胸の奥にあった不安が、はっきりとした形を持ちはじめる。
それは、妹と自分、そしてルシアをも呑み込もうとする見えない影だった。
ルシアは何かを言いかけて、唇を閉ざした。
ほんの一瞬、決意とためらいが入り交じったような表情が浮かぶ。
代わりに、彼はホロの手に小さな布袋を握らせた。
中には乾いた花弁が数枚、静かに眠っている。
「これは、もし何かあった時のために。握りしめれば……私が駆けつけます」
「ルシア、これは一体……」
「今は説明できません。でも、信じてください」
ホロは言葉を失ったまま、袋を見つめる。
ただの花弁にしか見えない。けれど、ルシアの瞳には揺るぎない真実の色が宿っていた。
そのとき、路地の奥からかすかな物音が響いた。
風が板壁を揺らす音にも似ていたが、それは明らかに人の気配を孕んでいた。
二人が同時に振り返る。
夕闇に溶けるように、男の影が静かに遠ざかっていくのが見えた。
足音は小さく、しかし確かに石畳を踏みしめている。
追えば間に合うかもしれない――だが、ここで軽率に動くことは危険だと、二人は無言のうちに悟った。
互いの目が合い、ゆっくりと頷き合う。
言葉はなくとも、その瞬間に同じ覚悟が交わされていた。
夜が訪れる前に、決着をつけなければならない。
――それが、この街での静かな日常に終わりを告げる始まりだった。