第23話 糸に導かれて
翌日の昼下がり。
ルシアは配達へ、ミナはエリオと食材の買い出しに出ており、店にはホロひとりだった。
静かな店先で、水を含ませた如雨露を傾けながら、鉢花の土を湿らせていたその時――
花屋《ミモザの庭》の前で、一台の四輪馬車がゆっくりと停まった。
磨き上げられた黒漆の車体に、銀糸で縫われた紋章。
街の一般客が乗るような荷馬車とは明らかに違う、上質で格式ある造りだった。
通りを歩いていた人々が足を止め、低くざわめく。
「……貴族の馬車か?」「あの店に用があるのか?」
視線の集まるその中心に、ホロは戸惑いながら立っていた。
やがて、従者が馬車の扉を恭しく開ける。
そこから姿を現したのは――見覚えのある男だった。
「ご無沙汰しております、ホロ殿」
静かに馬車を降り立ったのは、先日救った男、ガルヴァン・トレイス。
涼やかな絹の外套に、磨き抜かれた革靴。
その佇まいは、まさに“街を動かす商人”と呼ぶにふさわしい風格を帯びていた。
「突然の訪問、お許しいただきたい。今日は――あなたに伝えたいことがあって参りました」
そう言う彼の声音には、ただの礼を述べに来た者のそれではない、確かな決意がこもっていた。
「改めて礼を申し上げねばと思いましてな。先日の件……命の恩は、そう簡単に返せるものではありません」
「い、いえ……あれは、たまたま通りかかっただけで」
「ですが、私にとっては“偶然”で片づけられる話ではありません」
ガルヴァンは視線を上げ、まっすぐホロを見た。
「そこで――ひとつ、あなたにお願いがあります。ある方に、お引き合わせしたいのです」
「……ある方?」
「領主様です」
ホロは一瞬、呼吸を忘れた。
「りょ、領主……?」
「ええ。我らがこの港町ミールハイゲンの街を含め周辺の村々も治める領主、アルフォンス・ディアレイド卿。花をこよなく愛される方でして、庭園を手ずから整えるほどのご趣味をお持ちです」
さらりと語るガルヴァンの声には、敬意と親しみが同時に宿っていた。
「温厚で聡明なお方です。領地の視察や孤児院の支援にも熱心で、領民からの信頼も厚い。……まさに理想的な“主”と言って差し支えないでしょう」
領主といえば遠い存在だと思っていた。
だが、その像はホロの思う貴族の姿とは、どこか違って見えた。
「その方が……私を?」
「そうなる可能性が高い、という話です。私はあなたの花を拝見しました。飾り方にも、扱い方にも、花への敬意が宿っている」
そこまで聞いたホロは、少しだけ視線をそらした。
自分はただの花屋でしかない。
領主など、会うこともないはずの人物だ。
「……私なんかが行って、役に立つんでしょうか」
「役に立つかどうかではなく、『見る価値がある』と思わせたのです、あなたが」
ガルヴァンは一歩、静かに近づいた。
「それに――扱う花に宿る気配も、あなた自身の人となりも……無視できるものではない」
ホロはわずかに目を瞬いた。
その言い回しには、淡い含みがあった。だが深くは語られない。
――そのとき。
視界の端で、紅い糸がふわりと揺れた。
ホロとガルヴァンを結ぶ糸。
前よりも濃く、確かな色を帯びて。
その奥で、一瞬だけ――微かな虹色が瞬いた。
ホロは息をのみ、瞬きをする。
だが次の瞬間には、虹色は跡形もなく消えていた。
「……どうか、前向きに受け取っていただきたい」
ガルヴァンの声が、現実へと引き戻す。
花屋としての腕を認められた嬉しさ。
けれど、領主という存在の重みは、まだ実感に届かない。
それでも――運命の糸だけは、確かに動き始めていた。
「……少し、考えさせてください」
ホロは静かにそう返した。
ガルヴァンの瞳が、わずかに細められる。
満足したような、それでいて何かを待つような眼差し。
「もちろん。答えを急ぐつもりはありません。ですが……」
ガルヴァンは、ふと視線を花々へ向けた。
店先に咲く鉢植えの花々は、種類も色合いも均整が取れ、けれど自然な呼吸をしているように配置されている。
「花は、育てる者の人柄を映すといいます。あなたの店を見て、私も確信しました。扱う手も、見つめる目も、決して“飾り”ではないと」
その言葉に、ホロは戸惑いながらも小さく息を吸った。
自分がしていることは、ただ花と向き合っているだけ――
だが、それを“価値あるもの”と言ってくれる人がいるという事実は、確かに胸の奥に届いていた。
「……領主様は、どんな方なんですか?」
ホロの問いに、ガルヴァンは静かに微笑む。
「アルフォンス様は、花を前にすると驚くほど穏やかになるお方です。自ら剪定ばさみを手に取り、季節ごとの育ち方にも目を配られる。領地経営の合間であっても、庭園の視察を欠かさないほどに」
その語り口は、どこか温かい。
厳しい貴族像よりも、もっと柔らかい人間像を思わせた。
「庭園の一角を改修する計画が進んでいまして……今までになかった花々を迎え入れたい、と仰っているのです。……そこに、あなたが選ぶ花が加わる可能性がある」
ホロの胸が、かすかに脈打った。
――自分の花が、領主の庭へ。
ふと視界に揺れが走る。
紅の糸は、さっきよりも艶を帯びて浮かび上がっている。
その奥で、虹色がまたひときわ強く瞬いた。
見間違いとは思えない。
それはまるで、“ここから新しい糸が編まれていく”と示すように。
「……行ってみようと思います」
ホロは、気づけばそう口にしていた。
驚きよりも、静かな決意が声に宿っていた。
「……そう言っていただけると信じていました」
ガルヴァンはふっと口元を緩めた。
それは商談の笑みではなく、人としての敬意を含んだ微笑みだった。
「詳しい日取りは、あらためてお伝えしましょう。……その時が来たら、どうか後悔のないように」
最後の言葉だけが、かすかに意味深を含む。
だがホロはまだ気づかない。
ガルヴァンが去るとき、紅い糸はゆっくりと揺れながら――
その終端が、さらに遠くへ伸びていく。
まだ見ぬ領主へ。
まだ知らぬ出来事へ。
まだ訪れていない選択へ。
ホロは、その糸の先に広がる未来を、まだ想像できなかった。
ただひとつ――
日常の延長線ではない何かが、確かに始まりつつある。
そう思わせるだけの、鮮やかな“揺らぎ”が胸に残っていた。




