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堕天の花冠  作者: 蒼月あおい


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第22話 風に揺れる再会

 午前の陽ざしが通りを照らし、花屋《ミモザの庭》の前には、朝の風がやわらかく流れていた。

 ホロは店先の鉢植えを並べ替えながら、葉についた露を指先で払う。どこか穏やかな時間が流れている――そんな中、隣でミナがふいに声を上げた。


 「……あ! あのおばあちゃん!」

 ぱっと顔を明るくしたミナが、通りを指さす。


 その先には、ゆっくりと歩く老婦人の姿があった。灰色の編み込み髪に、季節に合った深い青のショール。上品なゆるやかさをまといながら、歩調は年齢を感じさせないほど落ち着いている。


 「あの日、リンゴ転がしちゃってた……」

 そうつぶやくミナを見て、ホロは「ああ」と気づいたように目を細めた。


 「エレノアさん、だよな。……また来てくれたんだ」

 ミナは迷わず駆け出す。


 「エレノアおばあちゃん!」

 呼びかけられた老婦人――エレノアは、すぐに顔をほころばせた。


 「まあ、ミナちゃん。今日も元気そうで何よりだね」

 その声には優しさと、どこか懐かしさのにじむ温度があった。


 ミナは息を切らしながらも笑顔で返す。

 「最近こっちに良く来るね! 歩くの疲れない?」


 「ゆっくり歩けば問題ないよ。昔からこの通りは好きでね……」

 そう言いながら、エレノアはふとホロのほうへ視線を向けた。


 そのとき、ホロの視界の端に――一本の金色の糸が現れる。

 ミナとエレノアを繋ぐ、柔らかな輝き。

 その糸は、風に揺れながらも、ほどける気配を見せない。


 ――あの時から続いていた縁が、まだ生きている……。


 ホロが眺めているあいだにも、糸は少しずつ光を強めていく。

 まるで再会を喜ぶかのように。


 「お兄ちゃん、こっち来て!」

 ミナに呼ばれて、ホロは手を拭いながら歩み寄った。


 「こんにちは。あの時はどうも」

 ホロが会釈すると、エレノアは微笑み、少しだけ目を細める。


 「まあ……ホロさん、おはよう」


 「あ、はい……おはようございます」

 その言葉に――エレノアのまつげが、ほんのわずか震えた。

 驚きか、懐かしさか。だが、すぐに表情は穏やかに戻る。


 「……ミモザさんの店は昔と変わらず、心地いいわね」

 その声音には、確かな「思い出」の温度が宿っていた。

 ホロはそれに気づかぬまま、軽く微笑み返す。

 「よかったら、少し中で休んでいきませんか? 陽ざしも強いですし」


 「ええ、ありがたく。……今日はそのつもりで来ましたから」

 そう言ってエレノアは、ゆっくりと店の方へ歩き出す。


 ミナは嬉しそうに隣を歩き、エレノアの腕を軽く支えた。

 その後ろ姿を見送りながら――ホロの視界に、再び金色の糸が揺れる。

 ミナとエレノアを結ぶ糸。

 そのすぐ横で、もう一本――自分とも繋がる糸が、淡く光り始めていた。


 まだ細く、けれど確かに存在している。

 それが何を意味するのか、ホロはまだ知らない。

 ただひとつ、息を飲むような感覚だけが、胸の奥に残った。


 店の扉につけられた小さな鈴が、からん……と澄んだ音を立てた。

 エレノアが店内に足を踏み入れた瞬間、その瞳に懐かしさがふわりとよぎる。

 「まあ……この香り。昔と、変わらないわね」


 ミナが胸を張るように笑う。

 「でしょ? エレノアさん、うちのお花、好きだって前に言ってたよね!」


 エレノアは目尻を下げ、穏やかに頷いた。

 「ええ。ミモザさんが生きていた頃は、よく来ていたのよ。

  花の香りと、ここに流れる空気が、あの人らしくてね」


 その言葉に、ホロの指がピクリと止まった。

 ホロがエレノアに確認したい事を聞く前に、一度だけ息を整えた。

 「……祖母とは……どのようなお付き合いを?」


 「ミモザさんには、よくしていただいたの。

  私は――そうね、“家族ぐるみ”といっていいほど、お世話になっていたわ」


 その言い回しには含みがあった。

 ホロが気づきかけたそのとき――


 「おや、今日はお客さんか?」

 カウンター奥からエリオが顔を出した。手には仕入れ伝票とメモ帳。

 視線がエレノアに向けられた瞬間、彼の目がほんのわずか鋭くなる。


 「……ホロ、その方は?」


 「エレノアさん。祖母が生きてた頃の常連さんらしい」

 そう紹介すると、エリオはエレノアに目を向け、静かに頭を下げる。


 「失礼しました。初めてお見かけしますが……どこか、商会の方のような」


 「ふふ。よく言われるのよ。けれど私は――ただの老いぼれよ」

 エレノアの笑みは柔らかい。だが、仕草の端々ににじむ所作は洗練されていた。

 言葉選び、背筋の伸び、場への自然な馴染み方。

 “ただの一般人ではない”という印象が、見慣れた目にはなおさら強く映る。


 エリオは声には出さず、心の中で確信を深めた。

 ――これは、宮廷か、それに準ずる立場の人物だ。


 ミナは気づかずに楽しそうに話す。


 「エレノアさん、最近よく来てくれるんだよ!

  なんかね、お花の前に立つと笑ってくれるの!」


 「ええ。……その笑顔を見るためでもあるのよ、ミナちゃん」

 さりげなく返された言葉に、ホロの胸がわずかにざわつく。

 その意味を深く考える間もなく、もうひとり影が近づいた。


 「まあ、素敵なお客様ですね」


 ルシアだった。手には作業用の布巾、そしてにこやかな笑み。


 「おはようございます。また来ていただいたんですね」


 エレノアはゆっくりと頭を下げた。

 「ご丁寧にありがとう。……あなた……ルシアさんと言ったかしら、お花の扱いがとても上手ね」


 「えっ、本当ですか?」


 「花の香りが散っていない。茎が折れずに水を吸っている。

  よく観察しなければ、できないことよ」

 ルシアの目が驚きに見開かれ、すぐに照れくさそうに笑った。


 「そんなふうに褒められたの、初めてです」


 「それなら、今後も褒め甲斐があるわね。花に好かれる人は、私も好きよ」

 その言葉に、ルシアは少しだけ胸に手を当てた。

 ――どことなく、心が深く撫でられるような感覚だった。


 ホロはその様子を眺めながらも、ひとつだけ確信する。

 エレノアは、ただの客ではない。

 花屋に来た理由は、“花が好きだから”だけではない。

 彼女は、見に来ている。

 ――誰を、とは……まだ言葉にはならない。


 そのとき、ホロの視界の端にまた金色の揺らぎが生まれる。

 ミナとエレノアの糸は、以前より濃く、太く。

 そして自分とエレノアの糸も――まだ細いが、確実に存在し、伸びていた。


 その糸の意味を、ホロはまだ知らない。

 けれど胸の奥が、ただの偶然ではないと告げていた。


 店内の小さなテーブルに出されたハーブティーを受け取ると、香りを確かめるように目を閉じた。


 「……このブレンド、ミモザさんの時と同じ香りね。

  あなたが淹れたもの?」


 「はい。レシピは祖母のノートにあったものなんです。

  “疲れた人にほど沁みる味”――って書いてあって」

 ホロが答えると、エレノアのまつげがゆるやかに震えた。


 「ええ……あの人らしいわ」


 その声には、ただの常連客を越えた “懐かしさ” が滲んでいた。

 しかしそれ以上は、言葉にしない。ただ、胸に抱きしめるように微笑んだ。


 ミナが嬉しそうに身を乗り出す。

 「ねえ、エレノアさん! 昔のお話、もっと聞きたい!」


 「ふふ……それはいつか、ゆっくりね。

  聞く覚悟ができた頃に――きっと、話すことになるでしょうから」


 「え? どういう意味――」


 問いかけるミナの声がまだ続く前に、エレノアはそっと手を重ねた。

 「大丈夫。焦る必要はないのよ、ミナちゃん。

  縁というものは、急がずともつながっているものだから」


 横で聞いていたホロは、ふと胸がざわついた。

 その言葉は、ミナに向けたようであり――自分にも投げられたようで。


 エリオは静かに観察していた。

 会話の流れ、所作、言葉遣い……どれも、平民のものではない。

 “見る者”、ではない。

 “見守る者”だ――その確信が胸に落ちていった。


 ルシアは花の話を続けながら、ふと微笑んだ。

 「エレノアさんって……花を見つめる目が、すごく優しいんですね」


 「花はね、人よりも正直でしょう?

  だから、寄り添ってあげる人が必要なのよ。……とくに、弱い花には」


 その言葉にルシアは「なるほど」と頷いたが、

 ホロだけは、なぜか胸の奥がひりつくように反応していた。

 ――自分のことを言われたような、そんな感覚。


 そんな空気が静かに落ち着いた頃、エレノアは立ち上がった。

 手すりにそっと触れ、しかし足取りはしっかりとしている。

 「そろそろ、お暇しましょう。……今日はよい日になりました」


 「もう帰るの?」とミナが名残惜しげに袖を掴む。

 「ええ。また来ますよ。……きっと、そう遠くないうちに」

 そう答えたあと、エレノアはホロに向かってゆっくりと視線を合わせた。


 「ホロさん。ミモザさんが守ったこの店――どうか大切にしてあげてね。

  ……“グレイス”という名は、花だけのものではないのだから」


 その言葉に、ホロの胸がわずかに強く脈を打つ。

 「……はい。もちろん、守ります」


 答えた瞬間――視界の端で、金色の糸がまた揺れた。

 ミナとエレノアを結ぶ糸。

 そして、自分とエレノアの糸は――前より確かに太く、輝きを増していた。


 それが何を意味するのか、まだ言葉にはならない。

 ただ、店の扉を出ていくエレノアの背に、ホロは目を離せなかった。


 春の風が吹き抜け、ドアの鈴がひとつ鳴る。

 その響きの中で、ホロの心に残ったのは――言葉にならない予感。


 “あの人は、ただの客じゃない”

 その感覚だけが、消えずに残っていた。

 そしてエレノアは、店を出た後に振り返り、小さな声で呟く。

 「……また、お会いしましょう。――グレイスの子どもたち」


 それだけを残して、通りの風に溶けるように歩み去った。

 背後には、再び揺れる金色の糸だけが残されていた。

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