第21話 紅を帯びた糸
その日、ホロは珍しく街の中心まで足を伸ばしていた。
ルシアが花束の配達に出ている間、店を任せられたミナが「夕食に使いたい」と言っていた香草を探しに来たのだ。
籠の中には香り高いタイムやローズマリー、ついでに見つけた新鮮な果物が入っている。
夕暮れの街は露店の呼び込みで賑わい、香辛料や焼きたてのパンの匂いが漂っていた。
そんな中、ふと視界の端に紅を帯びた糸が現れた。
一本の細く輝く糸は、人混みを縫うように奥へ奥へと伸び、やがて路地裏の影へと消えていく。
——行かなきゃ。
胸の奥にざわめく予感が芽生え、ホロは籠を片手に足を速めた。
路地に入った瞬間、耳に飛び込んできたのは押し殺した呻き声と、荒々しい男たちの笑い。
細長い路地の奥で、四、五人の男がひとりの中年の男を囲んでいた。
その男は質の良い外套を着ているが、泥に汚れ、片膝をついている。
紅の糸は、まっすぐその男の胸元へと繋がっていた。
「……やめろ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
だが、男たちは一斉にこちらを振り返り、あざ笑うような目を向ける。
「なんだ、小僧。邪魔すんな」
「金にならねぇやつは黙ってろ」
ホロは籠を路地の入口に置き、男たちの間に飛び込んだ。
その瞬間、背中を誰かの腕がかすめ、鈍い痛みが脇腹に走る。
——速い……!
体が軽くよろけた。次の瞬間、拳が頬を掠め、視界が揺れる。
だが転ぶ前に踏ん張り、足を半歩引いて重心を整える。
エリオに叩き込まれた反射が、体を自然に動かしていた。
肩をひねって拳を受け流し、相手の腹に軽く膝を当てる。
鈍い手応えと同時に、別の男の蹴りが飛んできた。
腕で受けるも衝撃が全身に響き、息が詰まる。
「走れ!」
ホロが叫ぶと同時に、中年の男は驚いたように顔を上げた。
その一瞬の隙をついて、ホロは相手の腕を払う。
男はよろめきながらも立ち上がり、路地の入口へと走り出した。
足音が遠ざかるのを背に、ホロは残った男たちの前に立ちふさがる。
押し寄せる息遣いと殺気に背筋が冷たくなる。
四方から囲まれる中、ホロは一瞬、迷った。
——刃を抜くべきか……?
だが、次の瞬間、拳が再び飛んできた。
頬を掠め、血の味が口に広がる。
迷いが消える。
懐に手を入れ、短く鋭い音が鳴った。
ホロの手には、日頃は決して使わぬ小ぶりの短剣が握られている。
花屋の青年に似つかわしくない冷たい光が、闇の中でわずかに閃いた。
「これ以上、やらせない……!」
声は震えていた。
だが、構えたその姿に、男たちがわずかに足を止める。
紅の糸が視界の中で揺れ、その先の男の胸元に繋がっていた。
ほんの数秒の膠着。
遠くで衛兵の笛の音が響き、男たちは舌打ちしながら去っていった。
ホロは膝をつき、荒い息を整えた。
脇腹の痛みがじわじわと広がっていく。
その隣で、中年の男が深く息を吐き、かすれた声で言った。
「……君、命知らずだな」
「……助けたかっただけです」
震える手を下ろしながら、ホロはそう答えた。
紅の糸はまだ二人を繋いだまま、夕闇の中でゆっくりと揺れていた。
***
路地を抜けたときには、空はすでに群青色に沈み、街灯が一つ、また一つと灯り始めていた。
ホロは脇腹を押さえ、助け出した男の歩みに合わせてゆっくりと進んでいた。
「お手を煩わせてしまいましたな」
低く落ち着いた声には、礼と誇りが同居している。
男は整った身なりを崩すことなく、背筋を伸ばしたまま歩いていた。
「私の名はガルヴァン・トレイス。街の中央区で商会を営んでおります」
「商人さんなんですね」
「ええ。少しばかり顔の利く立場でして……それゆえ、穏やかでない出来事にも巻き込まれやすいのです」
ホロは脇腹の鈍い痛みに耐えながらも、視線をわずかにずらす。
そこには、薄闇の中で紅く輝く一本の糸が、二人を結んで揺れていた。
その糸は、ほどけることなく、まるで導くように真っ直ぐだ。
「お名前を伺っても?」
「ホロ・グレイスです。小さな花屋を営んでいます」
「グレイス……?」
男の口調がわずかに揺らぐ。
ホロはきょとんとした表情で、首を傾げた。
群青の空の下、灯りに照らされた髪がやわらかく揺れ、頬に淡い影を落とす。
その仕草に、ガルヴァンは一瞬だけ目を細めた。
「何か?」
ホロが首を傾げて言う。
「い、いえ、花屋……良い響きですな。花は人の心を慰め、時に縁を結ぶ。覚えておきましょう」
やがて道が分かれる場所に差しかかると、ガルヴァンは歩みを止めた。
「本日のご助力、忘れません。もし困難に直面したときは、私の名を告げてください。お役に立てることもありましょう」
穏やかな微笑みとともに軽く礼をし、その背は夜の街へと消えていった。
残されたホロは、深く息をつき、籠を拾い上げる。
痛みは残るが、胸の奥では不思議な高鳴りが続いていた。
ガルヴァンは大通りに出ると足を止めて小さくつぶやく。
「グレイス……まさかと思いますが……」
——あの紅の糸が示すものが、偶然であるはずがないという確信とともに。




