第20話 糸
午前の柔らかな日差しが通りを照らしていた。
店先の花々がそよ風に揺れ、淡い香りが漂う。ホロは店の外で花束を整えていたが、ふと、視界の端に何かが光った。
それは細く、淡い金色の糸だった。
一本の糸が、通りを行く小柄な老婦人と、店先で笑っているミナを繋いでいる。
老婦人は重たそうな買い物籠を抱え、ゆっくり歩いていたが、突然、袋の口からリンゴが転がり落ち、石畳をころころと転がっていった。
ホロが声をかけようと口を開くより早く、ミナが駆け出していた。
「おばあちゃん、これ!」
ミナは転がったリンゴを拾い、両手で大事そうに差し出した。
老婦人は驚いたように目を細め、そして微笑んだ。
「まぁ……ありがとうね。足腰が弱くて、落としたら追いかけられないのよ」
「うち、お花屋なんです。もしよければ、ちょっと休んでいきませんか?」
ミナは自然な笑顔で言い、老婦人の腕にそっと触れた。
その瞬間、ホロの目に映る糸がふっと強く輝き、まるで結び目が固くなったように見えた。
胸の奥で、不思議な確信が芽生える。――何か、大切なものが繋がった。
老婦人は誘いに応じ、店先の椅子に腰を下ろした。ミナが差し出す温かいお茶を受け取りながら、穏やかな声で話す。
「実はね、この通りは昔、よく来ていたの。旦那と一緒に花を買いに……もうずっと昔のことだけど……あの時の奥様はもういないのかしら?」
その言葉を聞いたとき、ふと思い出す。
「もしかして、私の祖母のことでしょうか?」
老婦人はホロの問いに目を丸くして、まるで何かを探し当てたかのような顔で言葉を発した。
「その方のお名前は……もしやミモザさん?」
「はい、ミモザは私の祖母ですが……」
老婦人は懐かしい人を見るようにホロの顔を見つめた。
「では……あなたがミモザさんのお孫さん?」
「はい、ホロと申します。こっちが妹のミナです」
そのやりとりの最中、店の奥からルシアが姿を見せた。
彼女は柔らかく微笑みながら近づき、エプロンの裾を軽く押さえて一礼する。
「ようこそいらっしゃいました。お茶のお代わりをお持ちしましょうか?」
老婦人はその丁寧な仕草に微笑み返し、「ありがとう、あなたも優しいのね」と頷いた。
けれどルシアの瞳は、その笑顔の奥を静かに観察していた。
背筋の伸びた姿勢、裾を整える仕草、指先の動き。
――普通の老婦人にしては、あまりに品がありすぎる。
言葉の端々にも、上流の人々特有の柔らかさと距離感が滲んでいた。
老婦人の目が優しく細められる。
「まぁ……あの方にそっくり。昔から不思議と花に愛される人だったのよ」
彼女はしばし遠くを見つめるように目を伏せ、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
裾を整える仕草ひとつにも、育ちの良さがにじむ。
「ごめんなさいね、つい懐かしくて……」
そう言って、老婦人は柔らかく微笑む。
「私はエレノアと申します。どうぞ気軽に“エレノア”と呼んでください」
その穏やかな声には、長い歳月を重ねた人だけが持つ温もりがあった。
花の香りがふわりと流れ、彼女の立ち姿をやわらかく包み込む。
「じゃあ、エレノアさんって呼びますね!」
ミナがぱっと笑顔を咲かせた。
明るい声が店内に響き、花々がまるで応えるように小さく揺れた。
エレノアの目尻に、優しい皺がさらに深く刻まれる。
ホロは胸の奥でざわめく感覚を抑えきれず、花束を握る手に力がこもる。
――この糸は、人と人の心を繋ぐものなのか? それとも……。
老婦人はしばらく店で過ごし、帰り際、ミナの手を包み込むように握った。
「また来ますね。あなたたちの笑顔に会いにね」
その瞬間、糸は光を残しながら空気に溶けるように消えた。
残ったのは、胸の奥に沁みる温かな感覚だけだった。
* * *
翌朝、花屋の前にはいつも通り朝露をまとった花々が並び、通りにはパン屋から甘い香りが漂っていた。
いつもなら心をほぐすこの匂いも、今のホロにはどこか遠いものに感じられる。
昨夜の糸の残像が、まだ瞼の裏にこびりついていた。
あれは確かに、ミナとエレノアさんと繋がっていた……。
胸の奥に沈む疑問を、ホロは首を振って振り払う。
「おはよう、お兄ちゃん!」
階段を駆け下りてきたミナが、元気な声を響かせた。
「エレノアさん、また会いに来てくれるって言ってたけど、次はいつ来てくれるかな!」
嬉しそうに話すその顔に、金色の糸が柔らかく揺れている。
——昨日の糸と同じだ。
その輝きは、朝の光に溶け込むように穏やかだった。
だが、ホロの視線はその奥に広がる街角へと向かう。
花を買い求める人々の間を、ひとつだけ影のように存在感の薄い人影が横切った。
誰も気づかないまま、その影は通りを抜け、やがて姿を消した。
「……ん、なんだ?」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
ホロは視線を戻し、笑顔を作ってミナの手に花束を渡した。
何でもない日常を壊したくはなかった。
だが同時に、胸の奥で何かがわずかに震えるような感覚があった。
まるで、それが自分に何かを告げようとしているかのように——。




