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堕天の花冠  作者: 蒼月あおい


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第19話 花の香

 朝霧がまだ残る街道を、ホロたちは荷車を引きながら歩いていた。

 昨日までの湯けむりの余韻がまだ残る空気の中、どこか心も軽やかだ。


「久しぶりの仕入れだね」

 ルシアが微笑むと、ホロは頷きながら手綱を握る。

「そうだな。休んだ分、今日はしっかり補充しないと」


 やがて、近隣の農家――マトスの花畑が見えてくる。

 朝露に濡れた花々が、陽光を浴びてきらめいていた。


「おお、ホロじゃねぇか。珍しいな、こんな朝早くに」

 陽気な声とともに、がっしりした体格のマトスが畑から顔を出した。


「マトスさん、おはようございます!」

 荷車を止めながら声をかけると、マトスは手を振って近づいてきた。


「休んでいたので、今日はいつもより多めに仕入れたいと思って早めに来たんです」

「おう、そういえば三日ばかり店が閉まってたな。どうしたんだ? 体でも悪くしたのかと思ったぞ」


 ホロは苦笑しながら首を振る。

「いえ、皆で温泉に行ってたんです。少し骨休めをと思いまして」


「ほぉ〜、あの真面目なお前さんが休むとはな! やっと人間らしくなったか!」

 マトスは豪快に笑いながら、後ろに立っているミナに気づいた。


「おっ、ミナ! 今日も元気そうだな!」

「うん! マトスさんこそ、腰の具合どう?」

「ははっ、もう平気さ。畑仕事が恋しくてしょうがなかったよ」


 そんなやり取りにホロが目を細めて笑う。

 ふとマトスの視線が、ミナの隣に立つルシアへと向けられた。


「おや? そちらのお嬢さんは?」

「こちらはルシアです。今は店を一緒に手伝ってもらってるんです」

「ほぉ〜、なるほどな……。品のある娘さんだ」


 マトスはニヤリと笑い、腕を組んだ。

「花屋らしく、お前にもとうとう花が咲いたってわけか?」

「なっ……! い、いや、そういうんじゃ……!」


 ホロが慌てて手を振ると、ルシアは目を瞬かせ、わずかに頬を染めた。

 その様子を見たマトスは、ますます愉快そうに笑う。


「ははっ、こりゃ本当かもしれんな。……いい娘さんだ、大事にしな」

「ち、違いますって!」


 ホロの必死な否定に、マトスの笑い声が畑いっぱいに響いた。


「そうかそうか! なら今日は特にいい花が揃ってるぞ。温泉で休んだ分、気合い入れて選んでけ!」

 マトスはそう言って、畑の奥へと案内した。


 案内された畑には、淡い桃色のラナンキュラスや香草のミントが咲き誇っていた。

 ルシアが丁寧に花を摘み、ミナが薬草を束ね、ホロがそれらを荷車に積み込んでいく。


 ときおりミナの笑い声が風に乗って響き、畑の空気がいっそう明るくなった。

 陽の光に照らされながら、三人の手元で束ねられた花々は、春の色を映すように柔らかく輝いていた。


「マトスさん、いつもありがとうございます」

 ホロが代金を渡すと、マトスは手を振りながら見送った。

「また来いよー! 次は新しい苗も分けてやる!」


 帰り道、ミナは嬉しそうに花束を抱えて跳ねていた。

「ねえお兄ちゃん! この花、店に飾ったらきっとすぐ売れちゃうね!」

「そうだな。ルシアが束ねたら、もっと映えるだろう」


 その言葉に、ルシアは小さく微笑み、頬に朱を差した。


 店に戻ると、四人はさっそく開店準備に取りかかる。

 新しく仕入れた花々を並べるたび、店の中に春の香りが満ちていく。


 開店と同時に、待っていた常連客たちが次々と来店した。


「久しぶりね、ホロさん!」

「最近店、閉まってたけど、具合でも悪かったの?」


 ホロは笑って首を振り、簡単に事情を話す。

「いえ、ちょっと皆で温泉に行ってたんです。休養も兼ねて」

「そうだったのね! 元気そうでよかったわ」


 客の声が途切れず、店内には笑顔と花の香りがあふれた。


 ――昼を過ぎても、客足は止まらなかった。

 鍛錬をする暇もなく、ホロとルシア、ミナの三人は花を束ね続け、重い荷物の運搬はエリオが担当した。

 夕方になるころには、店の花はすべて売り切れていた。


「今日はすごかったね……!」

 ミナが汗をぬぐいながら笑う。

「これだけ売れたのは久しぶりだな」

 ホロは小さく頷いた。

「今日は早めに店を閉めよう」


 その夜、四人は街の小さな食堂で夕食をとった。

 温泉の思い出話や今日の忙しさを笑い合い、束の間の休息を味わう。


 帰り道、夜風が頬を撫でる。


「……ホロ」

 隣を歩いていたエリオが、声を潜めて囁いた。

「さっきから、誰かにつけられている」


 ホロは歩調を変えずに、わずかに視線を動かした。

 ――確かに、遠くに二つの影がある。


「ルシア、ミナ。先に店に戻ってくれ」

「え? お兄ちゃん、どこ行くの?」

 ミナが不安げに見上げる。


 ルシアは静かにホロを見つめ、何かを悟ったように頷いた。

「……気をつけて。私たちは裏から入るわ」


 ミナとルシアが店へ戻り、二人の姿が見えなくなるのを確認してから、ホロとエリオは裏道へと向かった。


 角を曲がった瞬間、二人は立ち止まり、短剣を抜く。

「そこだ」


 暗がりから現れた二人組の男たちが動きを止める。

 エリオは難なく一人を捕まえ、男を押さえつけた。


 ホロはもう一人と対峙する。男もナイフを構え、鋭い光が月明かりに反射した。

 ホロは必死に間合いを取りながら身をかわすが、攻撃を完全に避けきれず、肩口に浅い傷を負った。


 痛みに顔をしかめながらも、ホロは冷静さを保ち、相手の動きを観察する。

 男が再び斬りかかろうとした瞬間、ホロは一歩踏み込み、腕をつかんで押さえつけた。


 体勢を低く保ちながら、もう一方の手で男の手首をひねり、ナイフを地面に弾き飛ばす。

 一瞬の隙をついてホロは相手の腕をつかんだまま後ろに倒し、ナイフを持つ手を制圧した。


「誰の差し金だ? “影の者”か?」

 エリオが低く問い詰めると、男は震えながら首を振った。

「ち、違う……金を奪うだけのつもりだった……!」


 ホロは肩の傷に手をあて、短く息を吐いた。

「この街も、少しずつ変わってきたな……」


 男たちはそのまま衛兵に引き渡された。

 夜空には薄雲が流れ、遠くで鐘の音が響いていた。


 店に戻ると、ミナはすでに眠っており、ルシアだけがランプの灯りの下にいた。

 ホロたちの顔を見ると、安堵の色が浮かぶ。

 しかしルシアの視線は、ホロの肩口の傷に釘付けだった。


「……ホロ、大丈夫?」

 慌てて手を伸ばし、傷を丁寧に手当てし、包帯を巻く。

「無事でよかった……」


 ルシアはそう言いながらも、心配で仕方がない様子だった。


「ただの盗賊だったよ」

 エリオが淡く笑いながら言うと、ルシアは小さく息をついた。

「夜は出歩かないほうがいいわね。……お茶を入れるわ」


 三人は静かに湯気の立つ茶を囲む。

 温かい香りが、夜の緊張を溶かしていった。


 やがてルシアはミナの部屋へ向かい、柔らかな寝息が二階から聞こえる。


 ホロとエリオは寝室へ戻りながら、短く言葉を交わした。

「武器は、常に手の届くところに置いておけ」

「……ああ、わかってる」


 その夜、静寂の中にわずかな警戒の影が残る。


 翌朝――新しい一日が始まろうとしていた。

 夜のざわめきは、朝の光に溶けるように薄れていく。


 花屋の扉を開けると、ひんやりとした空気の中に、仕入れたばかりの花々の甘い香りがふんわりと漂っていた。

 ホロとルシアが荷車を片付け、花を並べるたびに、店内は色とりどりの花であふれ、陽光を受けて柔らかく輝いている。


「……花が、昨日より元気そうだな」

 ホロがつぶやくと、ルシアは微笑みながら花束を手直しした。


 階段の上から、ミナの足音が聞こえてくる。

「おはよー!」

 その笑顔は、どこまでも無垢で、昨夜の不安をひととき忘れさせてくれる。


「昨日、遅くなってごめんな」

 そう言って頭を撫でると、ミナは「大丈夫だよ」と笑った。

 けれど視線は、ホロの肩に巻かれた包帯にすぐ気づく。


「……痛くないの?」

「平気、ちょっとぶつけただけだ」


 嘘をつくのは心苦しいが、それ以上心配させたくはなかった。

 ミナは小さく頷くと、「朝ごはん作るね」と言って奥へ消える。


 カウンターの奥では、ルシアが黙々と花を束ねていた。

 淡い金色の髪が朝日を浴びてきらめき、その横顔には静かな安らぎが宿っている。


 ふと視線が合い、ルシアが小さく微笑んだ。

「……花の香り、今日はいつもより強いな」

 ホロの声に顔を上げると、ルシアは花束を少し持ち上げて見せた。


「春の花が増えたからかもしれないわね」

 そう答える声が、ホロとのやり取りに安らぎを覚える。


 階段の上から、エリオが静かに降りてくる気配があったが、今は何も言わない。

 ただ視線だけが、ホロとルシアの間を一度だけ往復した。


 朝はいつもよりゆっくりと流れ、店の中には花とパンの香りが混ざって満ちていた。

 ――こんな時間が、もう少し続けばいい。


 ルシアはそう願いながら、束ねた花をそっとカウンターに置いた。

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