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堕天の花冠  作者: 蒼月あおい


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第18話 湯けむりのひととき(2日目)

 朝の陽光が窓から差し込み、温泉宿の洋館の部屋を柔らかく照らしていた。

 薄いカーテンを揺らす風は、湯けむりと温かい余韻を運んでくる。

 ミナはすでに起きて、ルシアを起こしにやってきた。


 「ルシアさん、朝風呂行こ! 今日もお湯、気持ちいいんだよ!」

 小さな体を跳ねさせ、目を輝かせるミナに、ルシアは微笑む。

 「ええ、わかったわ……昨日よりも、ずっと穏やかに感じる朝ね」


 二人は女湯へ向かい、湯船に身を沈める。

 温かいお湯が肌を包み、自然と肩の力が抜けていく。

 「……ああ、やっぱり落ち着くわね」

 ルシアの声は静かだが、確かに喜びが滲んでいる。


 ミナは嬉しそうに髪を整えながら、肩越しに小さな声で笑った。

 「ルシアさん、今日も笑顔だね。お兄ちゃんも見たら喜ぶだろうな」

 ルシアは少し顔を赤くしつつ、湯面に手を浸しながら頷く。


 (――天上では、感じることのなかった安らぎ。

 ここでは、人と過ごす何気ない時間が、こんなにも温かく心に響く)


 二人の間には、昨日より自然に、姉妹のような穏やかな時間が流れた。

 互いに微笑み合うだけで、言葉は必要なかった。


 朝食を終えた四人は、町の小道を散策し始めた。

 石畳に朝日が差し込み、温かく照らす。市場の通りには色とりどりの野菜や果物、香辛料、手作りの工芸品が所狭しと並ぶ。空気には土と花と香辛料が混ざった、地上ならではの豊かな匂いが漂っていた。


 「わぁ、このリンゴ、丸々として美味しそう!」

 ミナが手を伸ばして赤く光る果実を掴む。

 「甘い匂いね……今までこんな色や匂いを感じることはなかったわ」

 ルシアはゆっくりと両手で果物を触り、目を輝かせた。ホロはそんな彼女の姿を横目で見ながら、微かに頬を緩める。


 「ルシアさん、この香辛料、嗅いでみて!」

 ミナが小瓶を差し出す。ルシアが小瓶の口から香りを嗅ぐと、ほのかに温かい香りが立ち上る。

 「……スパイスって、こんなに香りが強いのね」

 「料理に使うと、味も香りも変わるんだ」

 ホロが教えると、ルシアは頷きながら小さな笑みを浮かべた。


 市場を抜けると、展望台への小道が続く。

 緩やかな坂道を歩きながら、四人は時折立ち止まって景色を眺めた。


 「見て、あの谷間! 川がキラキラしてるよ!」

 ミナが指を指す。

 「本当ね……光が水面で反射して、まるで宝石みたい」

 ルシアは目を細め、自然の光景を深く味わう。

 「ここに立つと、上から見ていた景色とは全く違う……光も風も、色も匂いも、生きているみたい」

 ルシアの声には、天上では得られなかった柔らかい感情がにじむ。


 ホロはそっと彼女の横に立つ。肩がかすかに触れそうな距離だ。

 互いに言葉は交わさないが、視線が時折交差する。

 ルシアの胸の奥がそっとざわめき、ホロもまた、彼女の自然な仕草や笑顔に頬を緩める。


 「ルシア、あの川の向こうまで歩いてみる?」

 ホロがそっと声をかける。

 「ええ……でも、今日はこの展望台から眺めて楽しみましょうか」

 ルシアの答えに、ホロは微笑むだけだった。言葉少なだが、その瞳には柔らかさが宿っている。


 その様子を後ろから見守るエリオの目は、兄のような静かな慈しみを湛えていた。

 (――互いに距離を縮めながらも、まだ言葉にしない。だが確かに、二人の間には友情以上のものが芽生えている)

 エリオの胸に、守るべき者を見守る静かな覚悟が広がる。


 展望台で景色を楽しんだ後、四人はゆっくりと町へ戻る。

 ミナは行き交う人々や店先の小物に目を輝かせ、ルシアもまた、地上の文化に触れることの楽しさを存分に味わっていた。

 「この陶器、かわいい……欲しいな」

 「じゃあ、買ってみようか」

 ホロの一言でルシアは笑い、自然に肩が触れそうな距離に立ち、互いの存在を意識しながらも不思議な安心感を抱く。


 夕暮れが町を橙色に染めるころ、四人は宿へ戻った。

 暖炉の炎が揺れ、木製の壁や家具を柔らかく照らす。夜風がカーテンを揺らし、外の川のせせらぎが静かに響く。


 ミナとルシアは宿に戻った後に、すぐさまお風呂へ行き、戻ってきたところだ。

 鏡の前で再び髪を乾かし合い、笑い声が部屋に溶け込む。

 ホロは隣のベッドに腰掛け、彼女の仕草や笑顔を静かに見つめ、ルシアは視線を感じ取ると、ほんの少し頬を赤くしながら微笑む。

 その距離の温かさは、触れることなく二人の心を結んでいた。


 夜、ベッドに横たわったルシアは、窓から差し込む月光に頬を照らされながら日中の事を考える。

 胸の奥のざわめきは昨日とは違い、日中の市場や展望台で触れた世界の色や匂い、風や光を思い出し、温かく柔らかい感情へと変わっていた。

 隣で眠るホロの寝息が、静かに、しかし確かに彼女の心を落ち着かせる。

 手を伸ばせば届く距離でも、触れなくてもいい――胸に灯ったこの温かな気持ちは、確かに“心”と呼べるものだった。

 その“心”が何かは、まだわからないけれど、大切な気持ちだという事だけは分かる。

 今はそれだけで良いとルシアは胸に刻みながら瞼を閉じた。


 翌朝、柔らかな陽光が窓から差し込み、温泉宿の洋館を淡く照らしていた。

 ミナは目を輝かせながら、早く出発しようとルシアを起こす。

 「ルシアさん、今日は町に帰る日だよ! 朝ごはん、いっぱい食べてね!」

 ルシアは少し眠そうに目をこすりながらも、微笑みで応える。

 「ええ、最後の朝ね……少し名残惜しいわ」


 四人は朝食を楽しみ、宿の主人に見送られながら荷車に荷物を積み込む。

 小道に立つと、朝の風が川のせせらぎや森の香りを運んできた。

 通りには昨日までの活気が戻り、朝の光に照らされた湯けむりがふわりと立ち上る。

 子どもたちが水たまりを飛び越え、露天の湯桶からは湯気が立ち上る。


 ルシアは深く息を吸い込み、川面に反射する朝の光や、道端の小さな花々、石畳に降り注ぐ陽の温かさを、心の奥まで染み込ませるように味わった。

 振り返ると、木造の家々の軒先に干された布や、工芸品の鮮やかな色彩がゆらりと揺れる。

 (――この町の匂い、色、音、そして湯けむり……全部が、ここで過ごした時間の温もりを教えてくれる)

 ルシアの胸に、ほんのりとした名残惜しさが広がる。

 (――また来たい……もっとゆっくり、この町に浸っていたい)


 馬車に乗り込み、四人は静かに湯けむりの町を後にした。

 振り返ると、朝の光が町を柔らかく包み、昨日の楽しさや湯けむりの香りがまだ漂っているかのようだった。

 ルシアの胸には、ここで過ごしたひとときの温かさと、名残惜しい気持ちがゆっくりと広がる。

 町の温もりと穏やかな記憶を、そっと抱きしめながら、彼女は過ごした日々の温もりを胸に刻んだ。


 ふと隣に目を向けると、ホロが穏やかに窓の外を眺めている。

 その横顔を見つめながら、ルシアは小さく呟いた。


 「……次に来るときは、ホロと二人だけで歩きたい」


 一瞬、ホロの目がわずかに見開かれたが、すぐに彼は照れくさそうに目を伏せ、柔らかく笑う。

 「……ああ。そのときは、ちゃんと案内するよ」


 ルシアはその言葉に静かに微笑み返した。

 朝の光が馬車の窓から差し込み、二人の頬を淡く照らす。

 そのぬくもりは湯けむりの町で感じた安らぎと同じように、心の奥深くまで染み込んでいった。

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