第16話 守るために
翌朝。
花屋「ミモザの庭」は、いつもと変わらぬ穏やかな光に包まれていた。
軒先には朝露をまとった花々が並び、通りを行く人々が足を止めては、ほんのひととき香りを楽しんでいく。
けれど、ホロの胸の内は、先日の出来事の残滓に揺れていた。
――審問官たちの冷たい視線。
あの場で、何かが始まってしまった。そんな確信だけが残っている。
「ホロ、そっちのカーネーション、もう少し水を足しておいて」
ルシアが穏やかな声で言う。
その声音はいつもと変わらないが、彼女の笑みの奥には、微かな疲労と痛みが滲んでいた。
ホロは頷きながらも、胸の奥でざらつく不安を抑えきれない。
ミナは、そんな空気を感じ取っているのだろう。
「ねぇ、今日のお客さん、みんな優しいといいね」と無邪気に言いながら、花を並べていた。
その明るさに救われるように、ルシアはふっと微笑む。
昼前、裏口の扉が小さく軋んだ。
そこに立っていたのはエリオだった。
いつもより黒い外套の裾を翻し、彼は静かに言った。
「今日から始めよう。……時間は、あまりない」
裏庭には、淡い陽光と草の匂いが満ちていた。
風に揺れる葉のざわめきが、まるで稽古の始まりを告げる鐘のように響く。
ホロは上着を脱ぎ、深呼吸をひとつ。
エリオは黙って間合いをとり、腰を落とす。
その姿は無駄がなく、まるで風そのもののようだった。
「まずは――身を守る術だ」
短く告げ、エリオは一歩で距離を詰める。
ホロが瞬きをした、ほんの刹那のことだった。
気づけば、エリオの指先が自分の胸元に届いていた。
動きを見たはずなのに、視界には残像すらない。
「……今の、どうやって……? こんなの、人間には無理だろ……!」
驚愕するホロに、エリオは淡々と答える。
「そこまでなれるとは思っていない。
だが――相手は、これに近い速さで動く。
少なくとも、守れるようにはなれ。でなければ、誰も救えん」
その言葉は、冷たくも真実だった。
ホロは唇を噛みしめ、再び構えを取る。
エリオの眼差しがわずかに鋭くなった。
日が傾くころ、修行は終わった。
その日を境に、ホロの日課が変わった。
昼は花屋の仕事。
夕方の二時間、裏庭での稽古。
それが、いつしか自然な日常となっていった。
ルシアは何も言わない。
けれど、稽古を終えたホロの額に汗がにじむ頃、
彼女は決まってタオルと冷たい水を用意してくれていた。
「お疲れさま。……無理しないでね」
その優しさが胸に沁みる。
ミナはそのたびに、「お兄ちゃん、かっこいい!」と笑う。
彼女の無邪気な声が、どこか救いのように響いた。
数日が経ったころ。
エリオは一本の木剣をホロに差し出した。
「剣は脅すためのものじゃない。命を守るための線引きだ」
その言葉に、ホロは静かに頷き、木剣を握る。
掌に伝わる重みと冷たさが、責任の形をしていた。
一振り、二振り。
動きはぎこちないが、その目には確かな光が宿っていく。
ルシアは窓越しにその姿を見つめ、
ふと微笑んだ。
――彼が変わろうとしている。
それが嬉しくもあり、どこか不安でもあった。
夕暮れ。
稽古を終えた裏庭には、まだ熱の残る風が吹いていた。
ホロは一人、木剣を手にしたまま立ち尽くす。
「……俺は、守るために強くなりたい」
静かな声が夜気に溶けた。
その背後から、そっと足音が近づく。
ルシアだった。
彼女は無言でホロの肩に手を置き、やさしく微笑む。
「無理はしないでね。あなたが倒れたら、誰が私たちを守るの?」
ホロは小さく笑い、頷く。
「分かってるよ。でも……もう、何も奪われたくないんだ」
ルシアはその横顔を見つめた。
星の光に照らされた彼の瞳は、かつてよりもずっとまっすぐで、強い意志を宿していた。
風が吹く。
花の香りと共に、夜が静かに降りてくる。
その夜、ホロの胸の中で――小さな決意が確かに灯っていた。




