第15話 支え
夜の花屋は、昼間とはまるで違う顔をしていた。
閉店後の静けさの中、ランプの淡い光が店内の花々を黄金色に照らしている。
その光の中で、ルシアは小さな花束を手にしていた。
——スズラン。
白く小さなその花は、どこか儚げで、それでいて芯の強さを秘めている。
「……ミナちゃんに、渡そうと思って」
ルシアは振り返り、少し照れたように笑った。
けれど、その笑顔の奥に、薄い翳りが見える。
「最近……お前、笑ってても心ここにあらずって感じがする」
ホロはカウンター越しに彼女を見つめながら言った。
「……何かあったのか?」
ルシアは一瞬だけ躊躇い、それから首を横に振った。
「何も……ないわ。ただ……」
その言葉は、ランプの炎に溶けるように小さく消えていく。
沈黙の中、外で微かな音がした。
風かと思ったが、それは規則的な足音に変わって近づいてくる。
ホロが眉をひそめて戸口を見た瞬間——。
ガラス戸の向こうに、黒い影が立っていた。
街灯の明かりを背にして、その輪郭はぼやけている。
しかし、その視線だけは、鋭く二人を射抜いていた。
ルシアの手が花束から滑り落ち、スズランが床に散らばる。
——また、来た。
そう悟った瞬間、ホロは彼女を庇うように前に立った。
「ルシア、奥へ——」
「ダメ、ホロ。あれは……私の——」
言葉が終わるより早く、戸口の影が一歩、踏み込んだ。
その足音が、静かな店内に冷たい波紋を広げる。
ランプの炎がわずかに揺れた。
その揺らぎの中で、ホロは自分の心臓が早鐘を打っているのを感じた。
——守らなきゃ。
けれど、そのための力は、まだ自分にはない。
黄金色の髪がわずかに揺れ、ルシアの横顔が炎に照らされる。
その瞳には、恐怖でも諦めでもない、別の決意が宿っていた。
次の瞬間、店の扉が開いた。
「……何かあったのか?」
扉の向こうから現れた男の姿に、ホロは一瞬、息を呑んだ。
あの白衣の男が再び現れたのでは——そう思ったのだ。
だが、ランプの光がその顔を照らした瞬間、ホロは目を見開いた。
「……エリオ?」
ルシアの兄、そしてかつて天上にいたはずの存在。
「……久しぶりだな、ホロ」
柔らかくも張りのある声。その響きに、張り詰めていた空気がわずかに緩む。
ルシアは微笑を浮かべたが、その目には複雑な色が宿っていた。
「エリオ……帰ってきたのね」
エリオは静かに頷き、散らばったスズランを見つめる。
「この香り……懐かしいな。母上が好んでいた」
その言葉に、ルシアの表情がわずかにほころぶ。
ホロはようやく安堵の息をついた。
「驚かせないでくださいよ……てっきり、また“あの連中”かと」
苦笑するホロを横目に、エリオはゆっくりと彼に視線を向けた。
その眼差しには、どこか探るような静けさがあった。
「……警戒するのは悪くない。だが、お前では、まだルシアを守りきれん」
淡々とした言葉に、ホロは思わず眉をひそめた。
「どういう意味ですか?」
エリオは肩をすくめ、店内を一瞥する。
「天上は今、不穏だ。審問官が動いたということは、均衡が崩れつつある証拠。
ルシアは……“見られている”。だから俺は一時的にここに留まる」
ルシアはその言葉に小さくうなずいた。
「……ありがとう、エリオ。でも、あなたがここにいれば、余計に注目される」
「構わん。俺の存在はすでに“記録外”だ。影の目にも映らん」
その口調は静かだったが、そこには確固たる覚悟がにじんでいた。
ホロは二人のやり取りを見つめながら、胸の奥に熱いものを感じていた。
——守る、という言葉が、こんなにも重いとは。
「ホロ」
エリオがゆっくりと名を呼ぶ。
「お前を嫌っているわけではない。……だが、ルシアが選んだ人間だ。ならば、それ相応の力を持て」
「力……?」
「心の鍛錬だ。迷いや恐れに負ける者は、いずれ“影”に飲まれる。
明日から少し時間をもらう。身体の使い方を教える」
ホロは一瞬言葉を失い、そして苦笑した。
「……まさか、花屋で修行することになるとはな」
「ふざけているようでいて、悪くない冗談だ」
エリオがわずかに笑う。その笑みは兄としての温かさと、戦士としての厳しさを併せ持っていた。
ルシアはそんな二人を見て、ほっと息を漏らした。
「……二人が並んでいると、少し安心する」
「安心してくれ」
エリオは妹の肩にそっと手を置いた。
「この場所は、もう二度と襲わせない」
ランプの炎が静かに揺れた。
その光の中で、三人の影が寄り添うように重なっている。
外では風が吹き抜け、散ったスズランの花弁が小さく舞い上がった。
——支えるとは、ただ傍にいることではない。
ホロは拳を握りしめる。
——守る力を、この手で掴むために。




