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堕天の花冠  作者: 蒼月あおい


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第14話 インクィジター

 その夜、花屋の奥では小さな灯火が揺れていた。

 ルシアは帳簿を開き、淡い灯りに目を細めながら、静かに羽根ペンを走らせている。

 ホロは片付けを装いながらも、ふとした瞬間に彼女の横顔を盗み見てしまう。


 ——この時間が、いつまで続くのだろう。

 そう思うたびに胸が締めつけられ、喉がひどく乾いた。


 その時だった。


 外から、かすかな羽音がした。

 それは鳥のものではない。もっと軽やかで、しかし確かな存在感を持つ音。

 ホロは思わず手を止め、扉へと近づいた。


 軋む蝶番(ちょうつがい)を押し開けた瞬間、夜気の中にひとりの男が立っていた。

 月明かりを背に、白い衣に身を包み、その背には純白の翼。

 だが、その瞳は氷よりも冷たく、温もりを欠いていた。


 「……ここにいましたか」


 声は淡々としていたが、否応なく胸を圧する力を持っていた。

 男の視線はホロを素通りし、奥のルシアへと真っすぐに向けられる。


 ルシアはゆっくりと立ち上がる。

 その表情から血の気が引いていくのを、ホロは見逃さなかった。


 「……審問官(インクィジター)


 その名を口にした瞬間、花屋の空気が一気に凍りついた。


 男は一歩踏み込み、低く告げる。

 「かのお方は——天界の均衡を守るために動いておられる」


 ホロが咄嗟に前へ出ようとする。

 だが、その動きを遮るように、男の翼から淡い光の粒がこぼれ落ちた。

 それは雪片のように美しかった。だが同時に、死の宣告のようでもあった。


 「待て……理由を聞かせろ!」

 ホロの声は怒りと恐怖に震える。


 しかし男は冷酷に答えた。

 「理由は天上で語られる。地上の者には不要だ」


 ルシアの瞳が揺れる。

 その心に直接干渉されるような、鋭い痛みが胸の奥をかすめた。


 ——精神を探られている。


 ルシアは歯を食いしばる。

 審問官(インクィジター)——堕天の兆しを見抜き、心を覗き、罪を嗅ぎ取る者。

 その視線は冷たい刃となって、彼女の記憶へと突き刺さろうとしていた。


 だが次の瞬間、男の動きが止まった。

 何かを察したように目を細め、僅かに後退する。


 「……アストレア様が正しかったか」


 意味深な言葉を残し、男はゆるやかに背を向けた。

 羽根がふわりと震え、かすかな羽音が夜気を撫でる。

 扉が音もなく開き、冷たい風とともに月明かりが流れ込む。

 やがてその姿は闇に紛れ、羽音だけがいつまでも耳に残った。


 ルシアはその音に肩を震わせ、伏せた瞳の奥に深い影を落とした。

 彼が訪れた理由を理解しているからこそ、恐れが胸を締めつける。


 一方、ホロはただ黙ったまま扉を見つめていた。

 なぜ彼が現れ、何を告げて去ったのか分からない。

 手を伸ばせば届くはずなのに、何ひとつ守れなかった——その思いだけが胸を焦がした。


 「ルシア……今のは、一体……?」

 震える声で問いかける。


 ルシアは答えられなかった。

 ただ、唇をかみしめながら、自分の中に芽生えた影の視線を感じ取っていた。

 ——それは、あの男ひとりのものではない。


 夜の帳の向こうで、誰かが確かに見ている。


 ホロは拳を握りしめた。

 ——これは“裁き”の始まりだ。

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