第13話 影の視線
その夜、ホロは眠れなかった。
布団の中で目を閉じても、背後から誰かに見られているような感覚が消えない。
風の音や床の軋みが、不自然に耳に刺さる。
夜半過ぎ、裏庭でかすかな衣擦れの音がした。
息を潜めて窓を開けると、月明かりの下に黒い影が立っていた。
最初は、木の幹か何かの錯覚かと思った。
けれど視線を凝らすにつれ、それは確かに人の輪郭を持っていると分かる。
夜気に揺れる裾、肩の線、そして静止した姿勢。
若い女のように見えた。
顔は光に溶け、目鼻立ちは仮面のように曖昧だったが、瞳だけが淡く反射し、こちらを真っ直ぐに見据えている。
その布の落ち方で、ようやくホロは気づいた。
——修道服だ。
昨日の老人とは違う、若い修道女の姿だった。
「……誰だ」
問いかけても、女は何も答えない。
じっとこちらを見据えたまま、月明かりに瞳だけが淡く光っている。
ホロは息を呑み、身動きもできずにいる。
しばらくの沈黙のあと、女はゆっくりと十字を切り、低く囁くように言った。
「——その者を見張れ、と命じられている」
ホロの胸が凍りつく。
「その者……ルシアのことか? 誰に命じられた」
女の瞳が一瞬だけ揺れ、やがてわずかに首を振った。
「名を告げれば……お前もまた、定めの鎖に繋がれる」
その瞬間、背後に気配を感じた。
「ホロ、どうしたの?」
振り向くと、眠たげな顔のルシアが立っていた。
再び庭に目を戻したが、女の姿はもうなかった。
ホロは何もなかったように首を振った。
「……いや、気のせいだ」
だが胸の奥では、確信が芽生えつつあった。
——神は、本当に俺たちを見張らせている。
そして、その理由は……まだ俺が知ってはいけない何かだ。
——翌朝。
花屋の扉を開けると、湿った空気が流れ込んできた。
昨夜の出来事が夢ではなかった証拠に、裏庭の土は、誰かの足跡でわずかに乱れていた。
ホロは深く息をつき、束ねた花を棚に戻す手が少し震えているのを感じた。
——あの女の言葉、裁き……本当に、何が起こるというのか。
思わず視線がルシアに向かうが、彼女はいつも通りに花を扱っている。
その無邪気さに、胸が痛む。
「顔色が悪いよ、ホロ……大丈夫?」
棚に花を並べていたルシアが振り返り、首を傾げる。
その何気ない仕草が、かえって胸を締めつけた。
——昨夜、あの女が言った「その者」とは、紛れもなくルシアだった。
ホロは返事をしようと口を開くが、言葉が出ず、ただ首を振る。
しばらく沈黙のまま、彼は心の中で不安をかき混ぜ続けた。
やがて昼下がり、店に来客があった。
入ってきたのは、あの修道服の女だった。
「……お前」
ホロの声は思わず硬くなる。
女は視線だけで制し、ルシアの耳には届かぬよう低く囁いた。
「お前に忠告しに来た」
「忠告?」
「近いうちに——あの者は“裁き”を受ける」
女の言葉は氷のように胸に沈み込み、ホロはしばし声を失った。
「裁き? 何の話だ」
女は目を伏せ、唇を噛んだ。
「理由を知れば、お前は彼女を庇おうとする。それは……命を縮める」
その時、ルシアが花を抱えて戻ってくる気配がした。
女はすっと姿勢を正し、まるで何事もなかったかのように花を一輪買い求め、静かに去っていった。
残されたホロは、握った拳の熱を持て余しながら思う。
——裁き? 理由も言わずに、そんな言葉だけ残して消えるなんて。
けれど確かに感じる。
「……あれ、お客さんがいなかった?」
ルシアが少し首を傾げ、花を抱えたまま辺りを見回す。
「……花を一輪買って、もう帰ったよ」
ホロは思わず息を飲む。
——さっきの修道女をルシアに会わせてはいけない気がした。




