第11話 静寂に潜むもの
夕闇が街を包み、花屋の窓硝子にぼんやりと灯りが揺れていた。
エリオは何も言わずに扉を開け、冷たい夜気と共に外へ出る。
その背中を見送るルシアの横顔は、花の影のように静かで、しかしどこか遠い。
「……さっきの人、誰?」
ホロの問いに、ルシアはわずかに微笑み——だが答えは返さなかった。
それは、心の奥に鍵をかける仕草だった。
その夜、花屋の周囲を覆う空気が変わった。
風が止み、遠くの路地から靴音がゆっくりと近づいてくる。
石畳を踏むその音は、ひとつひとつが鋭く、闇を裂くようだった。
「誰か……来る」
ミナがそっとホロの袖を引く。
表の通りには、街灯の下をゆっくり歩く影がひとつ。
顔はフードの奥に隠れ、長い外套が地面をかすめていた。
影は花屋の前で立ち止まる。
扉を開けるでもなく、窓を覗くでもなく——ただ、静かにそこに佇んでいる。
やがて、低く囁く声が夜気に溶けた。
「……見つけた」
ルシアはカウンターの奥で硬直した。
その声を、彼女は知っている。
過去の、忘れられない夜に響いた声——追跡者の声。
次の瞬間、影は振り返り、闇の中へ溶けるように消えた。
しかし残された空気は、恐ろしく冷たかった。
「ルシア……?」
ホロの呼びかけに、ルシアはゆっくりと顔を上げた。
その瞳は夜の色を映し、わずかに震えていた。
「……来るわ。本当に」
翌朝、街は晴れ渡り、夏の陽が石畳を白く照らしていた。
花屋の扉を開ければ、いつもと変わらぬ香りと、色とりどりの花々が迎えてくれる。
しかし、その中に漂う空気は、昨日とは違っていた。
ルシアは花束を包む手を止め、ふと外を見やる。
視線の先には何もない——ただ、通りを行き交う人々の姿。
それでも、心の奥底で冷たいものが広がっていく。
「……見ている」
小さく呟く声は、誰にも届かないほどかすかだった。
ミナが明るい声で花の水を替えながら、兄に話しかける。
「お兄ちゃん、昨日の夜……あの人、結局何だったの?」
ホロは答えに詰まり、視線をルシアへと送る。
だが彼女は背を向けたまま、花びらに触れていた。
結局その日、花屋の客足は少なかった。
理由はわからない。ただ、通りの人影はまばらで、
時折すれ違う誰かの視線が、妙に重たく感じられる。
ホロは店先の花を並べ替えながら、何度も外を振り返った。
ルシアは平静を装っていたが、目の奥に宿る張り詰めた色は隠せていない。
ミナはそんな空気を敏感に感じ取っているのか、言葉少なだった。
——俺は、何をしているんだ。
ホロの胸に、重たい自問が落ちる。
あの日、黒衣の男が現れた時も、何もできなかった。
ただ、見ていただけだ。
昨日の白銀の青年とのやり取りも、何一つ理解できず、ただ立ち尽くしていただけだった。
花を束ねる指先に、力が入りすぎて茎が折れる。
「あ……」ミナが小さく声を漏らす。
ホロは慌てて手を緩めたが、折れた花は元には戻らない。
——守れるのか?
自分はこの店を、妹を、そして……ルシアを。
何かが迫ってきていることはわかる。だが、その正体も、対抗の仕方もわからない。
夕方、客が引けた頃、ふいに窓の外を影が横切った。
ホロが身を乗り出して外を見ると、そこには何もない。
それでも、胸の奥のざわめきは消えなかった。
「……チャンスは、必ず来る」
自分に言い聞かせるように、低く呟く。
その声にルシアがわずかに振り向いたが、何も言わず、花に視線を戻した。
日が暮れると、風が窓を叩くたびにルシアの肩がわずかに揺れる。
「……時間の問題ね」
その言葉は、灯りの揺れる影に溶けて消えた。
ホロはその意味を測りかねながらも、
自分たちの花屋が、もう以前のような安全な場所ではなくなっていることだけは、
はっきりと理解していた。
外の空気は、嵐の前のように重く淀んでいた。
ホロの両手は、知らず握りしめられていた。