第9話 白銀の来訪
初夏の陽射しがやわらかく降り注ぎ、花屋の軒先には色とりどりの花々が揺れていた。
ホロは鉢植えに水をやりながら、隣で花を束ねるルシアの横顔をちらりと見る。頬にかかった髪が風に揺れ、その仕草は、もうすっかり“天使”ではなく“ひとりの女性”のものだった。
その奥から、軽やかな足音が近づいてくる。
「ルシアさん、お手伝いしますね」
妹のミナが、エプロン姿で現れた。かつての風邪の影も感じさせないその笑顔に、ルシアは柔らかく微笑み返す。
「ありがとう、ミナちゃん。じゃあ、この花束のリボンをお願い。」
「はいっ」
店の中は、穏やかな空気に包まれていた。
だが、その穏やかさの中に、ホロだけが気づく変化があった。
ルシアが、時折遠くを見るように視線を逸らす瞬間がある。笑っていても、瞳の奥が一瞬だけ揺れるのだ。
その日の閉店後、夕暮れの風が通りを抜けたとき、ルシアがぽつりと呟いた。
「……風の匂いが、少し変わったわ」
「変わった?」
ホロが問うと、ルシアは小さくうなずいた。
「昔……天界にいたころも、こんな匂いがしたことがあるの。何か、大きな変化が訪れる前に……」
彼女の声は淡々としていたが、その指先がわずかに震えているのを、ホロは見逃さなかった。
ミナが明るく夕食の支度を呼びかける声が、二人の間の空気を和らげる。
けれど、ホロの胸には、説明のつかない予感が静かに芽生えていた。
その風が運んでくるのは、果たして幸せか、それとも——。
カラン、と扉の鈴が鳴る。
視線を向けたホロは、思わず手を止めた。
そこに立っていたのは、長い白銀の髪をひとつに束ねた青年だった。
年の頃はホロと同じくらいか、少し上だろうか。
冷ややかな灰色の瞳が、店内をゆっくりと見渡す。
その瞳は、何かを探すようであり、確かめるようでもあった。
「いらっしゃいま……」
ホロが声をかける前に、青年の視線が奥に立つルシアへと吸い寄せられる。
その瞬間、彼の瞳にわずかな驚きと、複雑な感情がよぎった。
「……やはり、生きていたのか。ルシア。」
低く、しかしはっきりとした声。
ミナが首を傾げ、ルシアはその場で息を止めた。
手にしていた花の束がわずかに震え、花弁が一枚、床に落ちる。
「……どうして、ここに。」
その問いは、恐れと戸惑いが混ざった声色だった。
「探していた。あの日——お前が天上を去ったあの日から。」
ホロは言葉の意味が掴めず、ただ二人のやり取りを見守るしかなかった。
だが、空気は確かに変わっていた。
初夏の陽はまだ高いのに、背筋に冷たいものが走る。
「ルシアさん……この人、知り合い?」
ミナの問いに、ルシアはすぐには答えなかった。
青年の瞳が、ホロの方へと向く。
その灰色の瞳は、何もかもを見透かすように冷たかった。
「君が……彼女を人として生かしている人間か。」
——この人、ただ者じゃない。
ホロは直感でそう感じた。
そして、ルシアの過去が今、この場所に追いついてきたのだと悟った。