温度のない世界で君と
僕は救いのない夢を見ていた。その夢は今の自分が一番欲しい感情を喚起する夢だ。その夢にはいくつかのシーンがあり場面やシチュエーションは異なるのに得られるものは皆同じだった。
一つ目は、今はこの世にいない母の温もり、僕は赤ん坊になっていて布団に一緒に包まり頭を撫でられる。心地よくて、胸がほんのり暖かくなる。一方でかろうじて夢の中で保っている未来の僕の意識からすれば、今はもう感じられないものを見せるなんて救いようがないくらい残酷だと思う。
あとの二つ三つも、愛情、友情など心地よい暖かさを感じられるという点で同じで、現実の今の僕ではもう取り戻せない、失ったものの歴史をそれらが一番欲しいと思っている時期に見せつけられる悪夢だった。
「ん──現在時刻と天気」
「おはようございます、現在時刻は午前七時十五分四十七秒、今日の天気は晴れ、降水確率三十パーセントです。よい一日を」
良くない夢を見た後の寝起きの悪さはそのまま一日引きずることがあると、大学生になった僕は経験上よく知っている。
人工知能が日常生活のサポートに頻繁に使われるようになっても、この寝起きの悪さだけは取り除くことは出来ないし、防ぐことも敵わない。
僕が重い身体を起こしてカーテンを開けると、澄み切った青空に太陽光が部屋全体に差し込み、生活感のない整った部屋の無機質さをいくらか緩和したようだった。
しかし、僕はその様子を晴れの日は何度も見ているけど、やっぱり薄暗くて無機質な方が今は落ち着く。
サポート人工知能を一台買ったのも、その人間味を感じさせない声をこういう朝に聞いて太陽光で落ち着かなくなる自分の心への処方箋にしたかったからというのが理由だ。
実際は、気休め程度でただの便利な目覚まし時計だけど、役に立つと思って買った無駄は無駄とは言わないというのが、こういう時の僕なりの考え方だった。
身支度をしてアパートを後にし、大学へと向かう。
今の都会の街はテクノロジーという名の付くもので溢れかえっている。
街道には配達ロボットやお掃除ロボットがそこら中を行き来しているし、車はほとんどが自動運転車で空中には空飛ぶカプセルのような乗り物が行き交う、徒歩で移動している僕が珍しい方で絶滅危惧種に指定されつつあると言っても過言ではない。
「でさー本当にうちの彼氏ありえなくて」
「えー昨日遊べる言ったじゃんー」
テクノロジーで溢れかえる街中から少し離れたところにある大学のキャンパス前の並木道に入ると周囲から大学生達のポップな会話が聞こえて来るようになる。
僕はああいう会話を聞く度にかつての自分を思い出し、やはり失ったものをまざまざと見せつけられているような気分になる。
小学校の頃、優しかった母を事故で失った。中学校の頃には恋人と友達が出来た。それも高校を卒業する頃には失った。恋人の方はショックが大きかった、ずっと家庭の事情や進路で悩んでいたのに、僕はそれに最後まで気が付けずにいた。
「ねえ、河野くん、私凄く幸せだった」
高校三年生の夏、受験勉強の息抜きに花火大会に行った時に彼女が花火が上がった夜空を見ながらそう言った。
「幸せだったって過去形にしないでよ、これからもずっと一緒に居るって約束したんだから」
「あはは・・・・そうだよね、ごめんちょっと花火に見惚れていて言い間違えちゃった」
あの時の笑い声は明らかに乾いていて、彼女は花火の綺麗さではなく散っていく儚さに見惚れていたことに当時は気付かなかった。
──翌日、ビルから飛び降りて彼女は死んだ。
僕はそこで感傷にふけるのをやめた。思い出すとぽっかりと空いた空洞からドロッと何かがこぼれそうになる。
大切な恋人、仲の良い友人を自分の鈍感さや不甲斐なさで失っておいて、今さらそれらを欲する自分が僕は滑稽だとすら思った。そんな資格なんてあるはずもないのに。
まるで何かの研究所みたいに無機質な大学のキャンパスの前に一人の女子学生が、苦しそうに息を荒げて座り込んでいた。
「だれかたすけて・・・・」
女子生徒は必死にかすれた声で助けを求めながら、少し離れた位置にある鞄に近づこうとしていた。
「大丈夫かなあの子」
「救急車呼んだ方が良いんじゃない」
「やめなよ関わるとめんどいよ」
皆、見て見ぬふりを決め込んで何人かは冷めた視線を送りながら去っていく。
やがて女子生徒は倒れ込んでしまった。猶予はないように見える、予断を許さない状態なのかもしれない。
僕は、鞄を取り女子生徒の方に駆け出した。自分でもなぜこんなことをしているのか分からない感傷にふけりすぎて頭がおかしくなっていたのだろうと思う。
「く、くすりかばんの中」
鞄の中には確かに白い錠剤が入っていたというか、それしか入っていなかった。
「飲める?」
「だいじょうぶ・・・・」
彼女はなんとか震える手で錠剤を飲み、程なくして容体は安定したようだった。
「じゃあ僕は行くね」
なるべく深入りしないために僕は背を向けてその場を立ち去ろうとした。
「あの、お名前聞かせて下さい」
背後からそんな声が聞こえたけど、僕は無視して立ち去る。
あんな緊急事態じゃなければ彼女と関わることなんてそもそもなかった。
それが終わったのだからそれっきりにしておいた方が賢明だと僕は思った。
──失うほどに得るのが怖くなるというのは確かだ。再び得たものを失ってしまうことなんて珍しくないことを本能的に分かっているから。