9、夏布子の寒帷子
「…………」
先ほど私の腕を掴んだ時のあの遠慮なさはどこにいったのか。まるで別人か?急に握力がなくなったのかと心配になるほど、いっそ弱々しいとさえ言える力で私の手を握るイドラに前を歩かれ、私は夜のお屋敷の中へ戻った。
「なんてこと!!あぁ、奥様!!すぐに温かいお湯へお連れしますからね!」
ずぶ濡れの私を恰幅の良い婦人が迎えてくれた。頭にはちょこん、と白い帽子が乗っていて彼女がこのお屋敷のメイドたちを束ねる立場であることがわかる。
……なぜ帽子を見ただけでわかるのか。日本の私の生活圏内にメイドさんはいなかったし、そうした知識も小説や漫画でしか知らない。この世界の身分制度の証をなぜわかるのか。
そんな疑問が浮かんだが、それを解消できることはない。私は婦人に連れられバスルームに行く……はずだったのだが。
「……イドラ殿下?」
「……」
手を放してほしいのだが。
婦人と一緒に歩き出した私の手をまだイドラが掴んでいる。
「出ていくのか」
「行きませんが??」
その話、もう終わったのではないだろうか。
まだ引っ張ってくるイドラに私は首を傾げた。
「寒いのでひとっ風呂浴びてから寝ます。イドラ殿下も風邪を引かないようにちゃんと体を乾かしてから寝てくださいね」
「……」
ふわり、と私が欠伸をするとイドラ殿下はやっと信じてくれたのか、ぱっと手を放してスタスタと去ってしまった。
*
婦人はリーリム夫人と名乗った。イドラ殿下に仕える女悪魔だと言う。
「……悪魔」
「えぇ、そうでございますよ。あら、ご存じなかったのですか?このお屋敷にお仕えしておりますのは皆、ご主人様にお仕えしている悪魔でございますよ」
「……悪魔」
おほほほほ、と、私の髪を洗いながら優雅に夫人は仰る。
「人間はご主人様にお仕えできませんからね。すぐに塵になってしまいますもの。その点、あたくしたちは殺されても滅びない限り問題ございませんからね」
なるほど。こんな真夜中に平然と活動されているのも悪魔だからなのか。
夜の眷属、夜勤に良い。
私が感心していると、リーリム夫人は心配そうに頬に手を当てた。
「あたくしはお屋敷から出ることができませんから、そりゃあ気をもんだんですよ。このまま、折角いらっしゃった奥様が去ってしまわれるんじゃないかって。もちろんあたくしだけじゃなくて、他の連中もですけれど。執事の悪魔は屋敷から出られますけれど、今夜は外に出ておりますから、全く、肝心な時に何をほっつき歩いているんだか」
ころころとリーリム夫人の話は坂を転がる鈴のように止まらない。聞いていると段々眠気が強くなってきた。そもそも私は日中、これでもとても大変な目にあったと言ってもいいだろう。妙な世界に紛れ込んで、自分の名前も思い出せない。
夫とかいう男に不貞と殺人未遂を突きつけられて、逃げ回っていたら、あまりお根性のよろしくなさそうな男が間男と名乗り出た。そして妖精の庭で、臨場感たっぷりに摩訶不思議アドベンチャーを披露した。
あまりにも情報量の多い一日だった。もうぐっすり寝てもいいだろう。
うとうとと、瞼が落ちてくる。夫人が何か声をかけ続けてくるが、眠くて仕方ない。
「……明日は……朝………………おいしいごはんが……食べたい……」
思えば今日は何も食べていないのではないか。
異世界でどんなグルメに出会えるかわからないが……空腹と眠気が戦い、今は眠気が勝利した。明日の自分に期待したい。
*
「アザレア・ドマがロバート・グリンに自ら望んで嫁いだ?」
執事クラーリの報告を受け、イドラ・マグダレアは眉を顰めた。
「はい、ご主人様。ドマの治める土地では事実としてそのように知られております。アザレア様の父君、当主のグェス・ドマはこの婚姻をあまり快く思っていなかったようですが、アザレア様が強く希望し、ロバート・グリンと結婚できなければ死ぬ、とまで言って脅したとか」
「ッハ。あのドマを脅すとは。大した娘だな。ドマでも娘は可愛いか」
イドラのような引きこもりでもドマ家についての悪名は聞いている。
北の大地を治めるドマの一族。身分こそ伯爵家だが、この国で最も古い家門でもあった。ドマと同じくらい歴史のある家というのは王家くらいではないかとさえ言われているが、とにかく評判の悪い一族だ。
何しろタチが悪い。
善悪の判断、道徳心は備わっている。他人を慈しむ心の尊さ、重要さ、愛することの素晴らしさを、何もかもきちんと正確に「良いものだ」と理解してその上で、踏みにじるのが「大好きだ!」という、どうしようもない一族なのだ。
息をするように社交界で悪の華を咲かせるので、五代前の王が北の未開の土地に追いやったが、たった百年足らずでドマは北の地を「第二の首都」と呼ばれるほどに発展させた。この過程で国が3つほど滅んだことと、王族が一人を残し全員不慮の事故死を遂げていることは無関係ではないとイドラは思っているが、どうでもよい過去のことだ。
「……アザレア・ドマはあの愚物に懸想していたのか?」
ふむ、と、イドラはソファに身を沈ませて思案する。ドマの娘を迎えることに当然グリン家は難色を示したそうだが、グェスは多額の持参金を積んで娘の希望を叶えたらしい。
自分で口に出した言葉にイドラは不快な気持ちになった。だが、イドラが寝室に運んだあの小娘はアザレア・ドマではない。そう思いなおして、一度目を伏せる。
「そのように判断できるのですが、しかし、妙なのです。アザレア様はグリン家に嫁がれた後、正確にはその初夜に、ロバート・グリンの待つ寝室へは行かず離れの屋敷へ行き一人で過ごされたとか」
「……父親を脅すほど望んだ男の花嫁にならなかったのか?」
「グリン家のメイドたちに少しばかりご挨拶をさせていただきましたが、そのようでございます。リーリムら女悪魔の見立てでは、アザレア様は今もユニコーンに愛されるのではないかと」
悪魔らしからぬ随分と上品な言い方だとイドラは感心した。しかし、そうした体であるのなら、例の噂の方はどういうわけか。
「ロバート・グリンが騒ぎ立てた不貞の噂はどうなっている」
「はい。ロバート・グリンがご主人様の兄上の前でアザレア様の不貞を糾弾された際、上がった名前の男たちは皆身分の低い者ばかりでございます。実際にメイドたちも、彼らの出入りがあったことを認めています。彼らはグリン家の下男や庭師といった者たちで、アザレア様がロバート・グリンを退け離れの屋敷で淫蕩にふけったとして、男たちは解雇されました。平民らでございますから、貴族のアザレア様に命じられて断れなかったのだとロバート・グリンは主張しております」
「そいつらは全員生きたまま皮を剥いで砂浜に転がしておけ」
「そうおっしゃられると思い、すでにそのように。目玉もくりぬいてしまいましたが……よろしかったでしょうか?」
イドラはクラーリが褒章を欲しているわけではないことをわかっていたが、ひょいっと、自分の魔力を込めた金貨を放った。手のひらで受け取り、クラーリが恭しく首を垂れる。上級悪魔は自分の仕事が正しく主人に評価されたことを喜んだ。
「それともう一つ、レディ・フレデリカについてですが、どうもあれは聖女のようでございます」
金貨をぱくりと飲み込んでからクラーリは報告を続ける。
「聖女?まだ生き残っていたのか」
「先祖返り、あるいは覚醒者でしょう。ローダー子爵の庶子ですが、美しいと評判で修道院にいたのを子爵が引き取りました。元々はロバート・グリンと婚約していたところ、アザレア様がロバート・グリンを望んだため破談になっていますが5年前より花嫁修業ということでグリン家に住んでいたのをそのままにされています」
「…………………………アザレア・ドマの婚礼の日にもいたのか?」
「さようでございます、ご主人様」
バカなのか?と、イドラは思わず口に出した。クラーリも「愚か者というのは底が知れず恐れ入ります」と頷いた。