6、暑さ寒さも彼岸まで
自分の名前が思い出せない。
忘れてしまっている。消えている。
そのことが、私はどうにも恐ろしかった。私は私という意識があるのに、私は誰か?に対して、自分が納得できる答えを持っていない。
『アザレア・ドマ!!』
耳に残る、ロバートの叫び声。
あの声は私をアザレア・ドマと呼び、私が私の名前を思い出せずにいると、私の名前はきっと、アザレア・ドマになってしまって、そして私は、日本人の私の意識がすっぽり覆われて、アザレア・ドマになってしまうんじゃないか。それが怖かった。
私はアザレア・ドマじゃない。
なのに、名前が思い出せない。
私をアザレア・ドマと呼ぶ、ロバートの声が、ずっと耳に残った。
「いい加減目を覚ませ。朝まで寝ているつもりか」
「……普通人は、朝まで寝ているものでは?」
夢の中で寝て、夢の中で泣いているような気持ちなのに、ぶすっとした声が無遠慮に私を起こしてくる。
ぱちり、と目を開ければ青白い顔に、黒檀のような髪、真っ赤な目の死神のような男、イドラ殿下が私を見下ろしていた。
……途端、私は自分が誰かとか、アザレア・ドマが私にとって何なのかとか、そんなことをすっかり忘れてしまって、イドラ殿下の眉間の皴のことばかりが気になってしまう。何が気に入らないのか。私がどれだけ眠っていたかわからないが、少なくとも私が最後に見た彼は楽し気だったというのに。
「ついて来い」
イドラ殿下は短く言って、踵を返した。私が寝かされていたのは立派な家具に寝台のある、国会議事堂の貴賓室か何かか、と思うような場所だった。慌てて寝台を降りると、真っ白いネグリジェだった。
「……」
なんとファンシーな格好だろうか。レースたっぷりの。私が「あらやだ」と自分の格好を見下ろしていると、ついてこないことに苛立ったのか、イドラ殿下が一度振り返り「着替えさせたのはメイドだ」と言った。別に私はイドラ殿下が私の着替えをしてくれても気にしないが、殿下という身分の人がやることではないだろう。納得して頷くと、イドラ殿下はまた歩き出す。
夜の屋敷は静かだった。
メイドさんがいる、ということだけれどこの時間は眠っているのだろう。夜勤とかあるかもしれないが、少なくともすれ違うことはない。
明かりもないのにイドラ殿下はスタスタと進んでいく。私は窓から差し込む月明りに照らされるその背中を追うのにせいいっぱいだ。
「……遅い」
「はぁ……はぁ……歩幅の……違い……ですが!」
「走れ」
起き抜けに知らない屋敷で深夜、なぜ小走りにならなければならないのか。
せめて立ち止まってついてきているかの確認をするくらいの善性を見せて頂きたいが、よく考えればここまでお世話になっているのは私である。
「……なぜ屈む?」
私は数メートル先に離れているイドラ殿下に首を垂れると、身を沈め……クラウチングスタートの態勢を取った。
「わかりました」
「待て、わかっていないだろう」
「一瞬で追いつきますとも」
「なぜそうなる」
頭の中で天国と地獄を流し、ピストルの音を自動再生する。
パァン、と、瞬間火力のように全力でイドラ殿下に追いつこうとした私!!
あまりの勢い!
と、全く視界のよろしくない深夜の廊下!!!!!!
「この、愚か者めが……ッ!!!!!!!」
イドラ殿下へ、全力タックル、キマったぁああああああああ!!!!!!!!!!!!!
嫌な予感がしたらしく、うっかり振り返ったイドラ殿下の正面に、私はタックルをかます。ぐっ、と呻く声と、ずさぁあっ、と、私の突進方向に大きく後退しつつ、しっかり受け止めてくださったイドラ殿下。
ナイス筋肉。
「細いけど、鍛えていらっしゃるんですね」
素敵ですね、と、私が微笑めば、イドラ殿下はこめかみに青筋を立てた。近いので視認できる。細い、と言ったのがよくなかったのだろか。友人曰く、筋肉を褒められると男の人は嬉しいとか言っていたような気がするが…。
生憎これまで異性と親しく接するような機会がなかった。日本ではあまり異性に関心がなかったというのもある。しかし、イドラ殿下を異性として興味があるのかといえば、それはよくわからない。
「…………」
無言でイドラ殿下が私を抱き上げた。
優しさ??
私の足がご自分より遅いので、また私がダッシュをしないように……配慮ですね?気遣いですね?
「わぁ、ありがとうございます」
「…………」
私が素直にお礼を言うと、イドラ殿下はぐっと、何か言いたそうに眉間に皴を寄せたが、今すぐ落としたいという葛藤と戦っているわけではないと思う。
*
連れていかれたのは夜のガーデン。
お庭とは名ばかりの、枯れた草花のある開けた場所。元々は薔薇のアーチや花壇の花が賑わっていたのだろう名残がわかる。
「アザレア・ドマではない貴様」
「はい?」
その一画に私を下ろすと、イドラ殿下は口を開く。
「この庭は妖精王が作ったものだ」
「妖精王」
「俺が幼い頃、妖精国の大樹を燃やした。妖精王は俺に魔物になる呪いをかけたが、自分の善性を見せびらかしたいのだろう。呪いを逃れる方法も用意した」
それがこの庭で、この庭は妖精の花だそうだ。
花に「多くの人に愛された物語」を聞かせると、花は花粉、ではなくて「妖精の夢の粉」を作る。その粉を飲み続けることで、イドラ殿下は魔物にならずに済む……という。
「…………」
私は花が一輪も咲いていない庭を眺めた。
「この二十年。国中の、国外の、ありとあらゆる物語を集めて花を咲かせ続けた。だが、ただの作り話では花は咲かず、多くの人間というあやふやな定義の中で、好まれる物語であるものは限られている」
二十年で、話が尽きたとイドラ殿下は仰る。
確かに、それは、そうだろう。
私はふむ、と口元に手を当てて考えた。
どれくらいの人数に認識される必要があるか不明だが、「多くの人に愛された」物語。
この世界、ファンタジー小説のような世界観だとして、通信技術がどの程度発達しているのかわからないが……印刷技術がどの程度なのかもわからないが……中世ヨーロッパ程度だと考えると、識字率と、印刷技術により、物語が流れる速度が変わる。識字率が低ければ口伝か吟遊詩人の移動距離次第。
私の知るグリム童話にしてみても、グリム兄弟があちこち訪ねて、民話をまとめ上げなければ遠い日本の地に知られることのなかった物語だってあるはずだ。
王族というイドラ殿下が力を尽くし、二十年で集められる物語は尽きた。
ごほごほと、イドラ殿下が咳をした。手のひらに血が付く。
「……もしかして、殿下は……詰んでいらっしゃるのですか?」
「どういう意味か知らんが、後がないというのであればそうだ。花は咲かず、かつての残骸を粉にして、神官の命を捧げた粉末を吸いなんとか生きながらえているが、正気が薄れる感覚がある」
「……」
自分が自分であることが不明瞭になるその瞬間を、イドラ殿下は語る。
怪物になるのならそれもそれだが、自分というものが消えていくことが、一言「恐ろしい」という。
「死ぬのは構わん。痛みに苛立つが、妖精王の大樹が景気よく燃えたのを思い出せば留飲も下がる」
「まるで反省していない」
「だからなんだ。それがどうした。それはいい。それでいいが、己の姿を鏡で見る中で、これは俺なのかとわからなくなる瞬間がおぞましい」
わかるか、と、殿下は問いかけた。
わかるわけがないと、思っていらっしゃる声音。私はわかると答えたかったし、何なら、私は自分の名前が思い出せなくて、今も怖くて仕方ない。けれど、イドラ殿下は自分のその恐怖を、ご自分だけのものだと思っていらっしゃって、それを共有したいわけではないのだろう。
私が黙っていると、イドラ殿下は地面を指さした。
「何か話してみろ」
と、お命じになる。
何かとは、この話の流れで言うと、何かの物語だろう。
「アザレア・ドマではない貴様。小娘、お前は自分で自分をこの世界の者ではないと言った。そして、それが事実であれ虚構、貴様の妄想であれ、そう信じるお前の価値観があるのであれば、お前の知る物語があるはずだ」
私が誰であれ。
私が何であれ。
私が「私」と考える人間像があり、その私が「ここで育った」という世界観があるのなら、そこには人の中に伝わる童話、寓話、物語があるはずだと、そのように。
……あまりに、あまりにも……………藁ではないか。
溺れる者が掴む、藁ではないか。
この方は、私が妄想の中を生きる狂人であっても構わないのだ。そんな女の「浮気相手だ」と名乗ることで、ご自身の名誉がどうなろうと構わない。兄王様にどう思われても、ご自身でロバートに言ったような、不名誉からの慰謝料や、多額の財産を手放しても、そんなことはどうでもいいのだ。
花が咲かず、夜が明けることが怖い。
私はじっと、イドラ殿下を見つめた。
青白い顔。目の下にくっきりと浮かんだクマ。
花が咲かないかと、真夜中の庭を彷徨っていらっしゃったのか。
朝が来るたびに、目を閉じれば自分が違うものになっているのではないかと、思っていらっしゃったのだろうか。
「……」
私は近くの長椅子に座り、ちょいちょいっと、殿下に手招きをした。
「なんだ」
「話をしてみるので、座って、と思いまして。立って聞かせるのも、なんだか変でしょう」
「そういうものか。俺はいつも立って聞かせていた」
長身の顔色の悪い男性に、上から物語を浴びせられる花の気持ちを考えてしまう。
私はこほん、と咳ばらいをし、イドラ殿下を隣に座らせると、頭の中にあれこれと物語を思い浮かべた。
多くの人に愛されたという条件が、この世界限定ではないのなら、私はたくさん、物語を知っている。