3、夏の虫、氷を笑う
「イドラ殿下!!その女を引き渡して頂きたい!!」
「なぜ貴様に命じられなければならない?」
「アザレアを処罰するためだ!!」
私は混乱していた。
駆け込んだどこかの庭。花は全て枯れていて、庭というのがわかるのは、その残骸があったからに過ぎない。小雨の降る中、服が張り付いて気持ちが悪いが、そんなことを構ってはいられなかった。
私が逃げ込んだのは「イドラ殿下」の管理する場所らしかった。
あれだけ吠えていたロバートは礼儀を辛抱強く守りながら、今すぐ私を殴って蹴ってしまわなければ気が済まないという顔をしている。頑張って蹴ったけれど、潰すまではできなかったのか……ドレスのスカートが分厚かったせいだ。私は「ッチ」と内心舌打ちをした。
“イドラ殿下”は私を背に庇うと、相手を小馬鹿にするような薄い笑みを浮かべて腕を組んでいる。寛いでいると言ってもいい姿なのに、柵の前に集まった大勢の騎士たちの顔には緊張と、恐怖が浮かんでいた。
……私を引き渡さないでいてくれようとしてる?
何がなんだかまるで分らない状況だけれど、この〝イドラ殿下”は少なくともロバートや騎士たちのように私に暴力を振るおうとしてこない。敵ではないということは、味方になってくれるかもしれない。今はご自分の管理する土地にロバートが無遠慮に入り込もうとしているのを不快に思っているだけかもしれないが、少なくとも、ロバートや騎士たちよりマシに思えた。
「あの、」
「小娘、貴様はそこで蛹のようにじっとしていろ。俺が誤って踏み潰さんようにな」
「……」
助けてくれるのかと私が友好的な接触をしようとしたが、イドラ殿下はじろり、と私を睨むように視線をやって、そしてまたロバートたちの方を向いた。
こちらをごみか虫でも見るような目である。
……悪女や魔女という目と、ごみか虫という目のどちらがマシか、考えた方がいいだろうか?
「貴様の処遇は後に決めてやるが、今のうちにこれだけ答えろ。――貴様はアザレア・ドマではないのだな?」
「違います。それどころか、私はこの世界の人間じゃありません」
信じてくれるとは思えないが、アザレアの体で動いている女の言葉をどこまで聞いてくれるかわからないのなら、今言っておいても別に違いはない。違う人間が乗り移っている、などと私がいきなり他人に言われたら揶揄われていると思う。これを言ってイドラ殿下が馬鹿にされたと怒るかもしれない。けれど聞かれたのだ。
アザレア・ドマではないのだな、と、それは確認だった。
確認は、希望や期待も少なからず含まれている。特にこの、感情の変化の激しいイドラ殿下の目は雄弁だった。彼にとって私はアザレア・ドマではない方が都合がいいのだと、そう察することができた。
「そうか」
イドラ殿下は頷いて、そしてゆっくりと纏っている長いガウンを広げると、その中に私をすっぽりと隠した。
ロバートが叫ぶ。何をしているのかと、単純な驚きだった。
私と言えば、目を大きく見開くことしかできなかった。
青白い、死神のような男の人だと思ったイドラ殿下が、案外力強いことにも驚いたけれど、鼻をくすぐった薬草っぽいにおいに、なんだか笑えてしまう。
周囲の驚きをひとしきり聞くように沈黙してから、イドラ殿下は楽し気に口を開いた。
「アザレア・ドマの不貞が暴かれたのだろう?なるほど、ならばこれ以上隠す必要もあるまいよ。悪名轟くこの毒婦の愛人の一人にこの俺も含まれていたのだ。慰謝料はどうする?俺の持つダイヤモンド鉱山か?手っ取り早く小切手を渡すか?それとも――遅いお出での我が兄が、愚弟をどう裁かれるか」
子供がクリスマスの贈り物のリストを読み上げているような明るさで、ころころと笑いながらイドラ殿下が話す。
「なっ……!!な……!!!!!!!なん、だと!!!!!!!!!!!????」
パクパクと、ロバートは口を開いたり、閉じたりして忙しい。私とイドラ殿下を指さして、何か言おうとするが言葉が出てこない。頭がうまく回らないのかもしれない。
騎士たちもあんぐりと口を開け、レディフレデリカなどは両手で口元を抑えている。
そして大勢の貴族を引きつれた立派な身なりの……王様が柵の前で立ち止まり、困ったように額に手を当てた。
「何を馬鹿なこと言うんだ。イドラよ。お前はこの屋敷から出られず……」
「えぇ、兄上。その通りですよ、兄上」
イドラ殿下は兄王様の言葉に頷き、私の前に突然……跪いた。
……なぜ!!!!!!!??????
そっと私の手を取り、私に微笑みかける。
怖いが!!!????
「貴族の女は、父親に連れられてか、あるいは夫を持つ身でなければ王宮に上がれない。父の寵姫がそうであるように、王族に近づく女は既婚者で当然だ。俺が貴方を愛でることになんの問題もあるまいよ」
「……お前というやつは……」
私の頭の中に流れるベルサイユのばらのテーマソング。そして、流れていくポンパドゥール夫人やデュバリィ夫人。……この知らない世界も、フランス式なのだろうか。
どう反応していいかわからない私を他所に、兄王様がめちゃくちゃ長い溜息を吐かれた。