20、冬至十日経てば阿呆でも知る
私は皇太后様に注視していた。ものを語りながら、吐く言葉を宝石のように輝かせながら、それはそれとして「絶対あの人、なんかしてくる」という警戒心は緩めなかった。
何故って?それは予感があったわけじゃない。
ただお会いするその直前までは、ただの女の嫌がらせを受ける程度だろうな、と。おそらくお茶でもかけられるか、女性の値踏み、針のむしろにされるくらいだろうという覚悟があったくらいなものだった。
けれどそのお顔。
黒い髪に燃えるような意思の強い瞳を見た瞬間、私は全身全力で彼女を警戒することにしたのだ。
「このっ、これっ、を!!拾ったっ、人に!!差しあげっ!!ますっ!!!!!!!!」
衛兵さんたちが私につかみかかろうとする前に。私に飛びかかってくる前に、私は首の、耳の、髪を飾る大粒の宝石をブジブジともいで、ちぎって、掴んで、全力で投げた。
目の肥えた貴族の女性達にも眩い、悪魔に願わなければ常人では手に入れられないような、1つ1つが国宝級の宝石類。それが大盤振る舞い。砂糖菓子を投げるイベントのようにばらまかれた。
もちろん、気品のある女性達が群がるわけがない。けれど一瞬でも注目がそれれば良い。そして何より、私を害そうとしている衛兵達。つまり、自分たちで「稼ぐ」必要のある男性たちは、流れる宝石にどうしても目を奪われた。
そして私はあえて、誰かの膝に落ちるようにもしている。そうした幸運な令嬢は「まぁ、よろしいの?」とのんびり言って、そして嬉しそうに微笑んだ。それをそのまま、自分の耳にあてたりするのだから、他の貴婦人たちも黙っていられない。
私は喧噪になる前に、よし、今だ、と駈けだした。
走りながら、私は右手の親指にはめた指輪を回す。
「仕立屋さん、仕立屋さん、仕立ての悪魔。願いを叶えてくださいな」
と、これは呪文だ。
三回だけなら、この指輪に願えば私の格好を一瞬で変えてくれるという、魔法の指輪。ドレスで走り続けられるわけがなく、私が願うのはスパイクの付いた短距離走のための靴と、空気抵抗の少ないランニングウェアだ。クラウチングスタートを決められないのが残念。私は一気に身軽になって、全力で芝生の上を駆け抜けた。
優雅なお茶会にふんわりと着飾って参加の筈が、なぜ王家のお庭でインターハイを狙うような走り方をしなければならないのか。
まぁ、自業自得だろうな。
そう思う自分もいる。
多分、皇太后様の地雷を踏み抜いた。
国王様の腹違いの王弟殿下、イドラと同じ髪に、似た顔の女性に、王女と侍女の入れ替わりの話をするなんて、どう考えても、喧嘩を売っている。
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「……アゼルはどこだ?」
イドラが目覚めたのは日がそろそろ落ちるだろうという夕暮れ時。夜半ずっと起きているのでそんな昼夜逆転した生活になっている。
毎日の日課。起床時にブライドに訪ねると、側近の悪魔は細い目をさらに細め小首を傾げた。
「……ご存知ないのですか?」
と、悪魔が答えたその途端、イドラは大声で悪魔たちを呼びつけた。
久しぶりの怒号、怒気、憤怒のその形相に悪魔達は平伏して、各々が言い訳を口にする。誰も彼もが言うには、てっきりご主人様もご承知のことだった、と。知らないこととは思いもしなかった、と、そのように。イドラの怒りを恐れながら、それでも悪魔達はイドラがアゼルから知らされていなかったことのほうに重きを置いた。
屋敷中を探し回り、イドラは本当にアゼルがこの屋敷から出て行ったことを知った。
外に出る。土砂降りだった。
イドラは柵の向こうを睨み付ける。
「出て行ったのか」
「いえいえ、皇太后様のお茶会に行かれただけでございますよ」
ブライドはそう答える。他の悪魔たちはとっくにイドラの怒気に粉々にされたが、上級悪魔はまだ形を保てるだけの強さがあった。
「そうか。なら、あの娘はここへ戻ってくるのか」
「ご主人様の懸念されていらっしゃいますのは今夜の物語のことでございますね。ご安心くださいませ。今後数年分の物語でしたら、既に、えぇ。このように、書き記して行かれました」
どうぞと、ブライドが恭しく差し出すのはただの本だ。ただし背表紙や表題には何も書かれていない。イドラが受け取らないで居ると、ブライドが残念そうに言葉を続ける。
「我らが敬愛する女主人アゼル様が、旦那様のためにと書き残されていたものです」
「なんだと」
イドラは目を見開いた。
……そして、自分が動揺していることを客観視する。
「あいつは出て行くつもりがあったのか」
そんなはずはない、とイドラは即座に否定する。
泣かなくなったのだ。
元の世界の話も、物語以外ではしなくなったし、思い出して泣くようなこともしていない。アゼルが眠りにつくまでイドラはその横顔をじっと眺め、そして彼女が夢の中で元の世界に焦がれているのではないかと見守り続けたが、そんなそぶりは欠片もなかった。
半年、この世界で暮らしてきた。
アゼルと呼び続け、あの娘も自分の名をアゼルと受け入れた。
この屋敷に住んで、悪魔達を従えて、ものを食べて、眠ったではないか。
(ここで俺と老いるのではなかったのか)
毎晩、楽しげに笑っていた。
妖精達の光に照らされながら、美しい横顔をしていた。
この場所にすっかりと馴染んでいた。
「なのに、なんだ、これは」
イドラはブライドから本を奪い取り、床に叩き付けた。見るのも煩わしいとばかりに、腕を振ってそれを灰にする。
「おや。これはこれ……ご主人様。なんてことを」
「物語がないな。つまり、これであの小娘を俺の元に戻さなければならなくなったな」
「左様でございますね」
ブライドはゆっくりと頷く。しかしふと、小首を傾げた。
「しかしご主人様。一つ問題が。奥様を呼び戻されるにしても、ご主人様がお迎えに行かれることはできませんよね?」
「……」
イドラはじりっと、柵を見つめる。
軽く腕を出せば、その部分から黒い鱗に覆われた。人の姿から化け物の姿へ。
「っ!」
イドラはすぐに腕を引っ込める。すると、腕は何の変化もなかったように元に戻った。
それを眺めていた悪魔は、ゆっくりとイドラの耳に囁いた。
「よろしいのですか?奥様がこのまま二度と、あなたの元へ戻らなくなっても」
味方はいないんですか!!!!!?
→いないからあんな感じになったんじゃないですか。




