10、夏虫疑氷
ピーーーッと、電子音。
ハっとして私は靴を履こうとしていた手を止めて振り返る。そういえば電子レンジでおにぎりを温めていたんだった。バタバタしている朝。食べながら通勤してしまうのはお行儀が悪いけれど、ゆっくりしている時間がない日は仕方ない。
あれ。時間がないんだっけ?
腕時計を見る。緑のベルトに赤い枠の、気に入っている腕時計だ。それほど高くはない。雑貨屋で3000円くらいだった。それでもじっくり三十分はかけて選んだ。その時計、針は七時だ。なんだ、そんなに急ぐ時間じゃないじゃない。
『あら、なぁに。行かないの?』
『お母さん。時間を勘違いしちゃってた。八時に出ればいいのに』
『あんまり急いでるから今日は早い日なのかと思っちゃった。それなら珈琲を入れてあげるからリビングにいなさいよ』
ふわりと欠伸をして出てくるのはパジャマ姿のお母さん。
今日は仕事がお休みだから、いつもはきっちりしている格好がとてもラフだ。
『あぁよかった!』
私はどっさりと、玄関に鞄を下ろして壁に背をつける。
『なぁに?どうしたの?』
『夢だったの!全部。びっくりした。立ったまま寝ちゃってたみたい。時間も間違えてたし、疲れてるのかも』
私は笑いながら、夢の中のことを思い出す。
婚約破棄ではなくて、離婚だが、まるでファンタジー小説か何かのような夢だった。
夢の中で私は赤い髪の貴族だった。結婚相手は伯爵で、そしてその幼馴染に嫉妬したとか、多分、旦那様の気を引きたかったのかであちこち浮気をしたらしい!なんでそんな夢!
そういう願望でもあるんだろうか?全く心当たりがない。
『夢の中で、私が段々、自分じゃなくなっていくのが怖かったの』
『夢の中なんだから違う自分を楽しめばよかったじゃない?』
『それもそうなんだけど、でも、怖かった。これが夢かもしれないってなんとなくわかってるのに、自分体じゃないってわかってるのに、私、夢の中で自分の名前が思い出せなかった』
それがすっごく怖くって、と、キッチンに立っている母に笑いかける。母は呆れたように肩をすくめて『親がつけた名前を忘れるなんて』とぼやいた。
私は明るい調子で謝って、ありがたそうに自分の名前を言おうとして、そしてぴたり、と、表情を強張らせた。
あ。これも夢か。
*
「アザレア様」
「アザレア奥様」
「アザレア女主人様」
目を開けると、ふかふかの寝台に、レースのついた天蓋。それに、こちらの顔を覗き込む、同じ顔が三つ。
頬に小さな鱗がついた女悪魔という少女たちだった。
「レヴィ」
「アヴィ」
「タディと、それぞれ申します」
鯨と鰐と蛇の悪魔だというその三姉妹は長女と次女がぺこりと頭を下げて、三女のタディが紹介してくれた。アイドルか何かのように愛らしく美少女と言える容姿に朝からカロリーが高い。けれど悪魔というのは美しければ美しいほど力が強いようで、イドラの屋敷で使役される悪魔というのはある程度の力を持っていないと務まらないと言う。
メイドのような恰好をしている。タディはイドラが三人を私付きのメイドにするために喚んだと説明してくれた。
そうして朝から立派なバスルームに、薔薇の花弁を散らした豪華なお風呂に突っ込まれた。
「!!!!?」
熱湯、というほどではないが、明らかに熱い!
そしてこちらに確認の声もなくバサーっと上からお湯を……バケツをひっくり返したのかと思うほど大量にかけられる。やっぱり熱い!!
「!!!???」
何を、されているのか!!?
お風呂に突っ込まれたというのは言葉のアヤではない。パジャマを着たまま、ひょいっと、女悪魔の腕力で放り込まれたのだ。尻もちもついたし衝撃で顔を顰める暇もない。
い、いじめか!!?
思わず私が身構えるが、周りの女悪魔たちは……キャッキャと笑っている。
「人間の髪って柔らかいのね!」
「見て見て!肌が赤くなったわ!これ、この下に血がたくさん入ってるんでしょ?」
「ちょっとレヴィ、タディ、ちゃんと洗わなきゃお世話にならないでしょ!」
「ご主人様がアタシたち三姉妹にお命じになったのよ!メイドをやれるって証明しなきゃ!」
……ぜ、善意だ。
いや、悪魔に善意があるのか疑問だが……悪意はない。悪気がない。
しいて言えば……人のお世話などしたことがない……人外が、人形遊びの延長か何かの気安さで……私の体で遊んでる。お世話ごっこ、メイドごっこをするために……!!
「ゴホゴボゴボゴボ!!!!!!!!」
ぐいぐいと、私はバスタブに頭を押し付けられる。髪を洗うためだ。
「あれ?人間って水の中で息ができないんじゃなかった?」
「これ水じゃなくてお湯よ?できるんじゃない?」
だ、誰か助けて……!
悪魔の善意に殺される……。
たっぷりと水……お湯を飲んでしまいそうになり、私は必死にもがく。
「あ、ちょっと、暴れないでください奥様!」
「アヴィの力が弱いからよ。ちゃんと抑えてあげないと奥様が可哀想」
「足と腕の骨を折っておいたらいいんじゃない?その方がアタシたちもたくさんお世話できるし……」
「貴様ら、何をしている」
「奥様!!???」
物騒極まりない会話が聞こえて、私がさらに抵抗を強めて少し、バスルームの入り口から低い声が聞こえてきた。それに続いて、リーリム夫人の声。
「!!!!!?????」
私を抑えていた力が一瞬でなくなり、私はゲホゲホとバスタブの縁に身を乗り出す。
「下級悪魔の小蠅共が……!!!!!貴様らが己らに任せろと言ったがこの様か!!!!!」
ごしごしと目をこすれば、美少女トリオ、レヴィアタンの悪魔姉妹がイドラに壁に叩きつけられていた。ゴキゴキと、骨の砕ける音がする。
さ、さすがにそれは酷いんじゃ……。
「イ、イドラでん……」
「「「ご主人様!!もっと踏んでください!!」」」
「「「魔力で引き裂いてください!!!」」」
……。
…………。
私は三姉妹から視線を外した。そして私にかけよりタオルを体にかけて抱き上げてくれるリーリム夫人にお礼を言う。
「た、助かりました……死ぬかと……」
「歳の若い悪魔の方が奥様と感性があうだろうかとシェーシャが言ったけれど……大変申し訳ございません……!」
前半は震えながら独り言のように、後半は私に向けられたものだった。リーリム夫人は真っ青になり、私の体を抱きしめてくれる。人の、じゃなかった、悪魔のやさしさが身に沁みる。
そしてちらっと、視界にはいるバスルームの床は……真っ赤である。
悪魔も血が赤いらしい。それとも人型になっているからだろうか。
私の視界の隅っこでミンチにされた女悪魔三人分の塊を極力視界に入れないようにして、私は溜息をはいた。
「そもそも、私は自分で身支度ができるのでメイドさんは不要です」
「……」
すると壁際に立っていたイドラがぴくり、と眉を跳ねさせる。
「王弟妃になるのだから使用人を扱うことになれておけ」
……ならちゃんとした使用人をつけていただきたいものだが、それはぐっと堪える。イドラも、これは……親切とか、あるいは善意で、三姉妹をつけてくれたのか?人選はおかしいが。
「でも私は貴族じゃないし、アザレアじゃないんです。だから……」
あれ?と、私はぽろっと、自分の目から涙が出てきた。
あれ?あれ??あれ……??
ぽろぽろと、涙が止まらない。
「どうした」
ごしごしと私が自分の顔を拭うと、イドラが大股で近づいて、私の手を取った。
「擦るな。腫れる」
「いや、でも……なんか、止まらなくてですね」
「……湯が熱かったのか?それとも冷たかったのか?あの小蠅共が恐ろしかったか?いや、そもそも……まずは何か食わせてからがよかったか……?」
「違います……いえ、なんか……」
イドラは別にオロオロと狼狽えているわけじゃない。
私を見下ろして、ただ無表情に淡々と、私に聞くと言うよりも、自分の考えを口にしているだけだ。私の意見や気持ちを聞いているわけではないけれど、私は「違います」と繰り返した。
「……ではなんだ」
私の言葉に耳を傾ける気はあるらしい。昨晩、話を聞けと言ったからだろうか。
じっと待つイドラがイライラするんじゃないかと思ったが、私は涙があふれ続けて、嗚咽も止まらない。
そうだ。私はアザレアじゃない。
自分でお風呂くらい入れるし、身支度だってできる。王弟妃になどならない、貴族じゃないから、王族と結婚しようなんて思わない。
「……帰り、たい……っ」
元の世界の夢を見た。
夢の中で、これが夢だとわかってしまって、目が覚めて、あぁ、帰れないのかと、そう突きつけられた。
自分の名前もわからないままだ。
メイドに支度をしてもらうことに慣れなくたっていい。
私はアザレアじゃない。
元の世界に帰って、私が選んで決めてきた自分の人生に戻りたい。
こっちが夢だったと笑って、何もかも「あぁ、怖かった!」と一言で済んでしまうようにしたい。
ぐずぐずと、私は泣いて、嗚咽を耐えながら、イドラの服をタオル代わりにし続けた。
明日粗大ごみの回収日(予約制)ってことを忘れていたので、今からコンビニで券買ってきます。