*皇太后ザビヤ*
「あの死にぞこないがお前に逆らったっていうの?」
ガシャン、と、水の都の工芸品である見事な硝子細工の器を床に叩きつけたのは自分の母親だった。国王タリムは溜息を吐き、母をなだめる言葉を選ぶ。
「逆らったなどと、母上。そのようなわけがないでしょう」
「お前は呑気だからわからないだけよ。お前がグリン伯爵の妻を処罰することを許可したのに、あの怪物はその邪魔をしたのよ」
「弟は真実の愛を見つけたんですよ」
「ハッ!」
皇太后ザビヤは鼻で笑い飛ばした。すぐに感情を露わにし癇癪を起すこの美しい女性は確かに現王タリムを産んだ女性だが、家臣たちから「人が良すぎます陛下!」と言われ続ける息子とはまるで似ていないと誰もが影で声を潜める。
「真実の愛ですって?あの化け物が!顔を見せるだけで人を不快にさせるような男が愛なんて!大方お前への嫌がらせにその女を利用しているんでしょうよ!あぁ、可哀想なタリム。折角グリン伯爵がお前を頼ったというのに、お前の威厳を明らかにするはずのその場所を……忌々しい!」
タリムは母がひとしきり、イドラを罵るのを黙って聞いていた。女の嫉妬というのは、対象が消えてもその子にあたり続けることで燃え上があがるらしい。なまじ、父王が死ぬまでイドラの母の、卑しい踊り子の肖像画を寝室に飾り続けたものだから、母は恨みの怨嗟が身の内を焼き続けるのだろう。
「……でも、ちょっとまってちょうだい。ドマの娘でしょう?よく考えたらお似合いじゃない」
怒りの嵐はいずれ凪ぐ。年を重ね、若いころ程体力のない母は昔のように暴れ続けて家具を全て窓の外に投げ捨てることができなくなったので、そのうちに大人しくなる。そうしてスン、と、冷静さを取り戻したザビヤはイドラ・マグダレアが「情人」に成り下がってまで執着した、と、主張している相手について興味を示した。
「あの悪名高い一族の悪女!オホホホホ、お似合いね!その上、情夫ですって!!ホホホ!王族ともあろうものが情けない!くだらない女にうつつを抜かすなど、あれにも父親に似たところがあったのね!」
先ほどは疑った事実を自分の機嫌を良くするためならあっさり受け入れる。その身勝手さ。タリムは母を愛しているが、それは彼女が自分の母親だからだ。母を愛することを美徳と知っている。子は親を敬愛するもので、タリムは自分はそういう人間であろうと努めていた。
「オホホホ、これは見ものだわ。ねぇ、タリム。グリン伯爵はそのドマの娘を離縁させたいと言ってきていたのでしょう。それならその願いは叶えておやり。そして、そのドマの娘は王弟妃にできるだろう。オホホホ、それなら、後宮の主人であるこの私にその小娘は挨拶に来るのが礼儀だわ」
タリムは目を伏せた。
基本的に王族に「気に入られる」女はどんな者でも気に入らないのが皇太后ザビヤだ。タリムの正室や側室は悉くザビヤにいびられ泣かされて、首を吊った者もいる。それでもタリムが黙っているのは、この後宮を治める女主人の器に相応しいだけの覇気のあるものが、ザビヤしかいないからだ。逆にザビヤに首をつらせるほどの苛烈な者がいれば、タリムはやはり黙ってそれを見ている。それを悪意と呼ぶのだろうか。魔女は人が過ちを犯すのを黙って眺める、それを魔女の悪意と呼ぶらしいが、国王である己が、国の一部のために行う沈黙は悪意なのだろうか。
「オホホホホ、あぁ、楽しみ!あの化け物はあの悪魔の屋敷から出られない!己の恋人がどんなふうに扱われるか目で見て知ることができないのよ。あぁ、それとも……愛しているのならなりふり構わず、あの柵を越えて一緒に挨拶に来るかしら?オホホホホ!そんなことはないわね!自分の母親がなぶり殺しにされるのだって、柵の前で眺めていたんだもの!」
踊り子の最後を思い出す母の顔色はとても良い。
後宮でどれほど贅沢な暮らしをしようと、どれほどの妃や侍女を従えようと、この女の心に「最も嬉しかった時」はその時限りなのだろう。
タリムは笑いつかれて母がぐったりと、長椅子に寝そべるのを待った。召使に命じ、母を寝所へ連れて行かせる。
一人残って空を見上げ、美しい月が出ていることを見ても、タリムの心は晴れなかった。
弟はなぜ、グリン伯爵夫人の「浮気相手だ」などと言ったのか。
タリムはイドラ・マグダレアを良く知っている。何かを愛したり、興味を持つ、慈しむことなどできない男だ。力加減がわからないのではなく、他人に加減をする理由を見出さない。自分勝手に振る舞って、自分が望む通りに振る舞って、それで他人に距離を置かれても何も感じない男なのだ。
あのドマの娘には何か秘密があるに違いない。
そう疑うのが当然で、タリムは密偵が戻るのを待った。
そして密偵が「アザレア・ドマが妖精の花を咲かせました」という知らせを持ってきたので、タリムはアザレア・ドマを殺そうと決めた。
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