1、飛んで火にいる夏の悪女
「……」
この庭は己のものだったはずだがと、イドラ・マグダラスは眉を顰めた。
庭だけではなく、宮殿の敷地内に位置するこの離宮の土地に建つ屋敷も己のものだ。だというのに、屋敷を囲う塀と柵を越えて、髪を乱した娘の表情にはなぜ不法侵入したことへの罪悪感が浮かんでいないのだろうか。
代わりに浮かんでいるのは恐怖の色だった。
娘の白い頬は殴打でもされたのか、赤く腫れている。額は切れ、赤い血がだらりと頬まで伝っていた。駆けてこの庭に転がり込んできたので、上等なドレスはあちこち擦り切れ泥がついている。呼吸は激しく乱れ、いったいどんな悲劇と不幸がこの年若い娘を襲ったのかと、相手がイドラでなければ同情を煽ったかもしれない。
イドラは今日も、昨日とその前の日よりずっと変わらぬ体の痛みと頭痛に苛まれていた。外で雨が降る音だけでも神経に障るというのに、彼の大切な庭に転がり込んだこの娘に対して優しい気持ちになどならない。髪を掴んで引きずり出すか、と行動を決めかけた少し後に、塀の向こうが騒がしくなった。
娘に続いてイドラの庭に入ろうと塀に駆け寄ってきたのは、数人の騎士だった。王宮内を移動できるということは伯爵家以上の騎士団の者だろう。騎士たちの身に着けている紋章はグリン家のものだとイドラは記憶していた。
「この魔女め!!悔い改めるどころか逃げ出すとは!!」
「己の醜い悪行を潔く認めろ!!」
怒りで顔を真っ赤にした騎士たちが柵の内側にいる娘に向かって怒鳴る。この娘は彼らに追いかけられてきたらしい。騎士たちはこのか弱い娘を怒鳴るのに必死でイドラの存在に気付いていないようだった。
騎士たちが怒鳴る度、娘がびくり、と体を震わせる。屈強な男たちに憎悪と敵意を真正面から向けられて微笑んでいられる女はそれこそ魔女か悪女か、年配の母親くらいだろう。
グリン家の騎士。そして燃えるように赤い髪の、16、7歳くらいの娘。
「グリン伯爵夫人か」
「違いますッ……!」
記憶している情報を引き出し言葉にすれば、即座に否定された。
イドラは首を傾げる。間違うはずがない。
目の前にいるのはグリン家の人間。ロバート・グリンが一年前に迎えた花嫁。赤い髪に緑の瞳を持つドマ家の次女だった、アザレア・グリン伯爵夫人だ。イドラは伯爵家の婚礼に参加はしなかったが、貴族の情報の多くは記憶している。
「違います……私は、あの人たちの言う……この体の人じゃないんです……!わからなくて、なんで……ここがどこだかも……何が、起きてるのか……」
乱れた赤い髪をそのままに、アザレア伯爵夫人が首を振る。瞳には怯えがあるが、それはイドラを前にしているからというわけではなさそうだった。必死に言葉を紡ぐ唇は赤い。男の目を引き誘うためにわざと濃い紅を引いているような女のにおいがするが、十代の娘の化粧には不釣り合いで、そして怯える表情にまったく似合っていない。
「……助けて」
「……」
娘がイドラを見上げて言葉を絞り出す。
言いながら、その顔に浮かんでいる絶望の色はそのままだった。この言葉を相手が受け取る理由がないと理解していて、それでも他にどんな言葉も思い浮かばない追い詰められた人間の断末魔のようだった。
イドラは思案する。口元に手を当てて、目を細めた。
向けられる感情。向けられた言葉。娘の緑の瞳の中に映るのは、世に、国中に「悪魔」と恐れられる己の姿。だが、正確にその姿が映っているのに、娘はイドラを恐れていない。
「そうか」
なるほど、と、一つイドラは頷いた。娘の出した言葉を1つ1つ全て記憶して飲み込む。そしてやっとイドラの存在に気付いたらしいグリン家の騎士たちに顔を向けた。
「この俺の屋敷に、俺の許可なく入ろうというのか」
「っ……!殿下!ご無礼をお許しください!しかしその女は……我が主人、グリン伯爵様を害した罪人でございます!」
「どうかお引き渡しください!!」
「罪人?伯爵夫人が一体何をしたのか。この怯え切った、虫も殺せぬような小娘が、グリンの頬でもひっぱたいたか、それとも夫のシャツでも焦がしたか?出した茶が冷めてでもいたのか?」
「殿下!!」
揶揄っているわけではなかった。イドラの想像力では、今自分の背後に回した少女が騎士たちに怒鳴られ追いかけられるような罪が思い浮かばなかった。だが騎士たちはそうは思っていないらしい。イドラ相手に礼儀を弁えようと葛藤しながらも、伯爵夫人の罪とやらに腸が煮えくり返っているようだった。
「その悪女はかのレディ・フレデリカを殺そうとしたのですよ!」
「自身の不貞を隠すために、あの心優しい、聖女のようなレディを!!」
「誰だそれは」
まったく聞き覚えのない名前だ。
レディ、というのであればどこぞの令嬢だろう。だが社交界デビューをしている程度の小娘の名をイドラは一々覚えない。グリン家の騎士たちはイドラが自分たちの要求を飲まないことより、フレデリカとかいう令嬢を知らないことの方に不快感を表した。だがすぐに、彼らはイドラが呪われていてこの屋敷から一歩も出ることができないことを思い出し、自分たちの留飲を下げた。イドラはその無礼を、常であれば放っておいた。だが今はそうした小さな無礼を許してやる心の余裕がない。何しろ、最後に服用した妖精の粉はほんのわずか。小指の爪の先ほどもなく、立っているだけで頭がガンガンと痛く、池に落ちたかのように体は重かった。ついっと、片手をあげて、騎士の一人の首を飛ばす。
「う、うぁあわぁああぁああ!!!!!????で、で、殿下……何を!!!!!!!!!」
四人いる騎士の内、三人が叫ぶ。叫ばなかった一人は首と胴体が離れているので叫べなかっただけで、その顔には驚愕の表情が浮かんでいた。
「何を、とはなんだ?この俺に無礼を働き、無様を晒してなぜ咎められないと思えたんだ?」
グリン家。
王都から遠く離れた小さな土地を治める小貴族だ。伯爵の地位を持っているが、三代前までが優秀だっただけで、二代目はろくでなし。三代目は家を潰さなければマシな方、と言われているようななんの取り得もない男のはずだった。そういうパっとしない家であるので、騎士団の連中はイドラの噂話は聞いていても、イドラが短気で短絡的で、忍耐力が無く、癇癪持ちであること、こと小雨であっても雨の日は酷く機嫌が悪いことを知らなかったようだ。
「三人は多いな」
「……は?」
「二人いれば、死体を一人ずつ引き摺ってもって帰れるだろう?」
イドラの当然の発想だ、と言わんばかりの口ぶりに「そうだね」と頷く者は残念なことにいなかった。だがそんなことを気にするイドラではない。再び片手をあげる、と。
「お待ちください!!」
「ん?」
「っ!!!!!!?お待ちくださいと……!!!!申し上げたのに!!!!!!!」
遠方から制止する声がかかった。が、止める理由にはならない。イドラが構わず、適当な騎士の首を飛ばすと、叫んだ茶色い髪の貴族……グリン家の当主、ロバート・グリン伯爵が非難の声を上げた。