画面越しの恋人
差し伸べられた君の手に、私はなんて応えればよかったんだろう。
じっと私を見つめる黒い瞳は、なんだか不安げで、泣きそうに見えて。
気付いたら、私はその手を取ってしまっていた。
――この時、この手を取らなければ。
私は、こんな想いを抱くことはなかったのに――。
「瑞妃!」
うしろからの声に私は振り返る。小走りで近寄ってくるのは、少しだけ茶色い髪の背の高い男の子。
「涼くん」
「今から行くの?」
柔らかい微笑みが向けられる。背が高いから大人っぽく見えるけど、この笑顔はどこか幼さがあって。心を許してくれてる、そんな感じがする。
「うん。涼くんも?」
「そ。行こう」
荷物持とうかと聞いてくれるのを、これくらいいいよと返す。
すれ違った女の子がちょっと羨ましそうな顔をしてるのを見て、なんだか胸がきゅっとなる。
きっと、優しくてかっこいい彼氏に見えてるんだろうな。
実際は手すら繋がない関係だなんて、思いもせずに。
入学してすぐ、声をかけてくれた茉莉先輩に惹かれて写真サークルに入った。
本格的に撮る人もいるけど、半分以上はデジカメで好きな景色を撮ってるだけだって。そう言って見せてもらったデジカメには、この辺りでは見られない自然の景色がたくさん写っていた。
女子ひとりじゃ行きづらいとこもあるからね、と笑う茉莉先輩。
確かに、あまり行動的でない私には、ひとりで行けない場所なんてたくさんある。折角大学生になったんだし、今までの引っ込み思案な自分ではできないことができるかもしれないって。自分と真逆の溌剌として輝く茉莉先輩の姿に、多分、入学したばかりで浮かれていた私は、そう思ってしまっていた。
今考えたら、分不相応だったのかもしれない。
キラキラした同級生に対して、私は本当に普通で。茉莉先輩は優しくしてくれたけど、初めはあまり馴染めずにいた。
そんな私に声をかけてくれる、もうひとり。それが、茉莉先輩がいた高校の写真部の後輩、相楽くん。
学部は違うけど同じ一回生の相楽くんは、背が高くて顔もよくて、何より誰にでも優しくて。人当たりのいいイケメンなんて、サークルの女の子たちが放っておくはずもなく、いつも周りに誰かがいた。
女子高だった私は男の子とどう話していいか戸惑ったけど、相楽くんはとても話しやすかった。地元に彼女がいるって聞いてたから、変に意識しなくてすんだのかもしれない。
皆の輪の中に入れるように、でも他の女の子のやっかみを受けない程度に、さりげなく私にも話を振ってくれて。
相楽くんと茉莉先輩のおかげで、夏休みに入る前にはなんとか皆と話せるようになった。
だから、前期のテスト期間が終わってすぐ。日帰りで遠出するって計画も、ちょっと楽しみにしてた。
その日はとてもいい天気だった。
免許を持っている先輩たちが、車で皆を拾いながら集まって。三台の車に分乗して向かったのは、大学から二時間くらいのところにある、観光地にもなってる渓谷。ハイキングコースになってるくらいだから、そんなに険しいところでもない。
青々と茂る木々と、彩るように重なる木洩れ日。道の横を跳ねながら流れる川。
そんな景色をカメラに収めようと、写真に詳しい先輩たちのアドバイスを聞きながら撮っていく。
普段見ない景色はとてもきれいで。撮った写真をほめてもらえて嬉しくて。
その日はそんな非日常な一日だったから。
だからきっと、私はその手を取ってしまった。
景色を撮りながら歩くうちに、皆と距離が空いてしまって。一番最後になってしまった私を、相楽くんが待っていてくれた。
お礼を言って歩き出すけど、今度は相楽くんが立ち止まったままで。どうしたのかと振り返った私に、相楽くんがぽつりと言った。
「……彼女、の……」
「え?」
「……彼女のフリ、してくれないかな……?」
最初は何を言われたのかわからなかった。
木洩れ日を背負う相楽くんがどんな顔をしてるかも、ちゃんと見えなくて。
暫くして言葉の意味を理解した時には、相楽くんは私の前まで近付いてきていた。
「変なこと言ってるってわかってる。でも春川さんは俺のこと知ってるし、だから……」
顔も知らないような他の学部の女の子たちから声をかけられることが多くなってきて、困ってるんだって相楽くんが話してる。
『俺のこと知ってる』は、地元に彼女がいるってことを聞いてるってことで。つまり私なら勘違いしたりしないってことなんだろうって、そう理解はしたけど。
突然のことに、それ以上頭が回らない。
鼓動は激しいのに、なんだか苦しくなって動けなかった。
そんな私に、相楽くんが手を差し出す。
「……お願い、できないかな……」
ようやく見えた相楽くんの顔は、なんだか今にも泣きそうに見えて。
ドキドキしている心臓を、そのまま締めつけられるような感覚を覚える。
それがどうしてなのか、その時の私にはわからなくて。
ただ目の前の相楽くんが悲しそうなのが気になって。
気付いたら、その手を取ってしまっていた。
「……いいよ」
驚いたように私を見る相楽くん。
相楽くんに触れたのは、それが最初で最後だった。
打ち合わせと称して、夏休み中に何度か相楽くんと会った。
もちろんデートなんかじゃない。
お茶をしながらお互いのことを話したり、ふたりとも取ってる一般教養の講義の課題をしたり。一緒に遊んだ話題を作るために映画に行ったり。
休み明けでちょうどいいからって、名字じゃなくて名前で呼ぶように変えて。
たとえ理由があっても、地元の彼女は嫌がるんじゃないのかって聞いたけど。
相楽くんは大丈夫だって言うだけで、それ以上話してくれなかった。
相楽くんは相変わらず優しくて。
隣にいると居心地がよくて。
どうしても、勘違いしそうになる。
だからふたりの時には名前で呼ぶことができなかった。
私は相楽くんの恋人じゃない。
恋人の振りをしてるだけだって、自分に言い聞かせるためにも。
後期に入ってからのサークルは、学園祭に向けての準備にかかりきりだった。
テーマを決めての写真展と、各自自由な一点を出すことになっている。
写真展のテーマは『動物』で、ペットや動物園の動物たちに野生動物まで、色々な写真が集まってきていた。
私は何十枚も撮った飼い猫の写真から一枚と、皆で行った動物園で撮ったレッサーパンダの写真が展示されることになった。こっちに向かって走ってくるレッサーパンダを切り取った写真は、我ながら躍動感に溢れたいい出来だと思う。
そして自由課題には、あの遠出で撮った木洩れ日の写真を出すことにした。
「光芒っていうんだって」
写真を見せると、相楽くんがそんなことを言う。
「こうぼう?」
「そう。こんな、光の筋のこと。そういうんだ」
葉の間から差し込む光を見ながら教えてくれる相楽くんは、どこか懐かしむような顔をしていて。
私の写真じゃなくてどこか遠くを見るようなその瞳に、なんだか胸が痛くなる。
……思い出しているのは、きっと。
「……ねぇ相楽くん。学園祭、彼女さんは来ないの?」
他に誰もいなかったから、ずっと聞きたかったことを聞いてみた。
相楽くんの動きが止まる。
「……どう……かな……」
「来るなら、私、振られておかないとおかしいよね」
「瑞……」
「気にしないから。ちゃんと言ってね」
自分で言ってるのに胸が苦しくて。
うつむいたっきり、相楽くんの顔を見れなかった。
――本当はわかってた。
あの日相楽くんの手を取ってしまったのは、浮かれていたからでも非日常だからでもない。
相楽くんが泣きそうに見えたからでもない。
ただ、相楽くんだったから。
相手が相楽くんだったから。
だから私はその手を取った。
彼女がいると聞いていても。
私のことが好きだからじゃないって知っていても。
それでも。相楽くんの恋人役を、他の人に渡したくなかっただけ。
気付いてない振りをして恋人役に収まって。隣に立って。名前で呼び合って。
嬉しくて、くすぐったくて、ドキドキして。
名前を呼んで微笑んでくれるのが、幸せで仕方なかったけど。
だけどそのうち、悲しくなった。
私の隣にいる相楽くんは、本当の相楽くんじゃない。
デジカメの画面に映る被写体みたいに。
近く見えても、触れられるのは画面だけ。
相楽くんの心は彼女の隣。私の隣にはないんだから――。
あの日、相楽くんは何も言わなかった。
私もそれ以上何も聞けなかった。
急にごめんねと謝ると、気にしないでと首を振られた。
それからも変わらずに、私は相楽くんの隣にいられたけど。
好きになってしまったと知られたら、もう隣にはいられないから。
名前を呼んでもらえることが、泣きたいくらい嬉しくても。
でもそこに相楽くんの心がないことが、泣きたいくらい悲しくても。
気付かないように。気付かれないように。
このまま相楽くんの隣にいられるように。
自分にも、相楽くんにも、必死に隠してた。
学園祭が近付いてきて、皆の写真が集まってくる中。相楽くんだけがまだ自由課題の写真を出していないままだった。
「茉莉先輩にもいい加減出せって言われてるんだけど、どっちにするか迷ってて。瑞妃も一緒に選んでくれない?」
「いいけど……私より先輩の方がいいんじゃ……」
「瑞妃の意見が聞きたいんだ」
素人の私より先輩たちの方がと思ってそう言うけど、相楽くんは譲らなかった。
印刷はしてるから、とサークル棟には行かずに広場のベンチに並んで座る。
「タイトルは『落ちる』にしようと思ってて」
相楽くんはA3のクリアファイルを出しながら、そう説明してくれた。
一枚目、と渡されたのは、葉先から今にも零れ落ちそうな雫を捉えた四切の写真。
雨の中の撮影は思っていたより大変だったと相楽くんは笑う。
そんなに苦労して撮った一枚と迷っているというもう一枚。
「……俺的には、こっちの方が好きなんだけど」
さっきと同じ四切サイズの写真を裏向けに渡された。
何気なく表を向けて、写っていたものに息を呑む。
雲の切れ間から光芒が差す、その下。見上げるように佇む黒いスーツの人物。
遠目に写るその横顔は、私だった。
声も出せずに相楽くんを見ると、困ったように眉を寄せて、ごめんと謝られる。
「入学式で見かけて。撮らずにいられなかったんだ」
私を見る相楽くんの眼差しは、いつもと変わらずに。
優しく、そして。
「説明も言い訳も、全部あとでするから。今はこれだけ聞いて」
画面越しではなく目の前にいる相楽くんは、まっすぐに私を見つめてる。
「春川さん。俺はこの日、君に恋に落ちました」
私に聞こえるだけの小さな声は、緊張して強張って。
見つめる眼差しは、あの日と同じ、どこか泣き出しそうで。
「君が好きです。俺と付き合ってくれませんか?」
そうして差し出されたその手を。
やっぱり私は、取らずにはいられなかった。
入学式で偶然私を見かけたこと。
茉莉先輩にサークルに勧誘するよう頼んだこと。
男子に慣れない様子の私に警戒されないようにと思い、彼女がいると嘘をついてしまったこと。
あの時本当は、彼女のフリを頼むのではなく、彼女なんていないと言いたかったこと。
恋人の振りをしている間は、楽しくて嬉しくて、でもその分つらくて。嫌われるのが怖くて、言い出せずにいたこと。
私の手を握りしめながら。
画面越しでない相楽くんは、申し訳なさそうな顔をしながら話してくれた。
「……春川さんに振られておかないとって言われて。ホントは俺が振られる立場なのに、春川さんにそんなこと言わせた自分が情けなくって」
そう言って私を見る相楽くんは、本当にしょんぼりと落ち込んで。
「嫌われても、ちゃんと俺の気持ちを伝えるべきだって。そう思ったんだ」
「相楽くん……」
私の呟きに、相楽くんは苦笑する。
「人前だけでも、涼くんって呼んでもらえて嬉しかった」
ふたりの時は涼くんって呼べずにいたこと、相楽くんは気付いてたんだと知った。
ぎゅっと、強く手を握られる。
「……また、名前で呼んでもいい?」
隣で私を見つめる相楽くんの瞳は、泣きそうだけど熱っぽくて。
握りしめられた手は、苦しいけど温かくて。
触れているのは画面じゃないんだと。今更そんなことを思った。
――あの日あの手を取らなければ。
私はこんな想いを抱くことはなく。
相楽くんへの気持ちにも気付こうとしないまま、大学生活を終えていたかもしれない。
嬉しくて、幸せで、だけど悲しかった数ヶ月。
でも、今からは――。
「…写真、どっちにするか。私の意見が聞きたいって、涼くん言ったよね」
涼くんが驚いたように目を瞠ってから、頬を緩めてふにゃりと笑う。
「うん。瑞妃、どっちがいい?」
「恥ずかしいから最初の方」
即答すると、涼くんは笑顔のままわかったと頷いて。
「じゃあこっちは俺の部屋に飾ろうかな」
私を見つめながら、多分私と同じくらい嬉しそうに、そう言った。
お読みいただき、ありがとうございます。