高橋少年
誰もいない部屋の中で布団に包まるが不思議と恐怖を覚えない。
まあ、元々恐怖だとかいう感情とは無縁な性格をしていたが、もしここにいるのが怖がりな少年であったとしても大丈夫だろうという確信を持てる。
何故なら優しく部屋全体を照らす月明りと虫たちの囀る声が居心地の好い空間を創造しているからだ。もし俺が生まれた時からこの地で生活していたのなら特に何も感じなかったのかもしれないが、それでも都会の人の温かさがない場所で独り眠るよりも遥かに善いものだというのはわかる。
明日は新しい学校での初日だ。円滑で円満な学生生活を送るためにもよく寝て万全の状態で明日の朝を迎える事にしよう。
ちゅんちゅんという雀の声と共に人生で初めて無機質なアラームや親の声ではなく自然と目を覚ますという経験をした。あいにくと緊張や興奮とは無縁のシティボーイ生活を送って来ていたため、清々しい朝というものは滅多に経験した事がないものでね。
「知らない天井、ってわけでもないんだよな」
なんだかんだここで寝るのは二回目だからな。昨日の夜は初めての体験に感激してるみたいな事を言ったが、俺は良いと思ったものはずっと良いと思い続ける事が出来るタイプの人間だから、つまりはそういうことだ(?)。
さて、そろそろ愛しのお祖父様がいるであろうダイイングルームに向かうとしようか。先ほどまで寝ていた寝具を片付け、廊下を歩く。予想通りダイニングルームからは焼き魚とみそ汁の匂いが漂っており、今日も日本人らしい食事から一日を始められるであろう事に感謝の念を抱かざるを得ない。
「おはよう」
「おう」
この家に来てから毎日している貴重なコミュニケーションを取り、席に座る。祖父が着席し姿勢を正した事を確認してから手を合わせ、それにワンテンポ遅れて追従する。
「「いただきます」」
白米を一口、みそ汁を啜り魚を口に運ぶ。美味い。前の家にいた時は毎朝の食事はパンやシリアルなどのお手軽なものばかりだったため、朝から手間のかかったお手製料理を食べられるのは和食という事も愛真理まるでホテルにでも来たのかと思ってしまうほど贅沢をしている気がする。
つい先日まで自分は洋食派だと思っていたのだが、この家に来てから本当は和食の方が好きだったんだなと気づかされた。もしかすればこれから毎日和食生活になるだろうからその準備として体が和食に適応しようとしただけなのかもしれないけれど。
祖父は凝り性なのかみそ汁の出汁はこんぶと鰹節の合わせに味噌を溶いたもので魚にも念入りに骨を取り除き下味をつけて絶妙な焼き加減となっている。ぶっちゃけ外食して食べる和食よりも美味しい。
「「ご馳走様でした」」
食事中の会話?そんなものないよ。その後、食器を軽く洗って食洗器に突っ込み、学校に行く準備をする。まあ、この家に来てすぐに必要なものを用意してカバンに入れていたため、寝間着から制服に着替えるだけでいつでも出発できるんだけどね。
ぶっちゃけ後30分ぐらいゆっくりしても十分間に合うけれど、別に家にいる必要も感じないため早めに学校に向かう事にした。
「それじゃあ、行ってきます」
「おう」
祖父に出発報告をし、玄関を開け学校へと向かう。昨日の昼間に一度学校への道を確認していたため、特に問題なくスムーズに登校するが、道中に一人も学生服を着た人を見かけない事が少しの不安を齎す。
生徒数が空くな過ぎる故かそれとも登校時間が被っていないだけなのか。前者でも後者でも特に問題はないけれど、実は今日学校が休みでしたとかいうオチだけは勘弁願いたいものだ。
そんな事を考えながら足を動かすといつの間にか学校の前までに来ていた。よく見る一般的なつくりの校舎だが、俺がこれまで通ってきたものと決定的に違うのはグラウンドの広さだ。
校舎の面積の何倍あるのだと突っ込みたくなる程度に広大なグラウンドにもしグラウンド一周しろとか言われたらクーデターを起こせるかもしれないなどとくだらない事を考えながら職員室へと向かう。
道中明らかに使われていないであろう教室がいくつ連なっている事に違和感を覚えながら進んでいくと現地住民第一号を発見した。
「おはようございます」
「うおっ」
前を歩いていた同じ制服の男子生徒に声をかけると肩をびくっとさせて驚いた表情でこちらを振り向いた。
顔立ちはまあ、いたって普通。女子の会話では優しい顔立ちしているよねって言われそうな少し痩せ型の少年だ。
同い年の子に少年って表現をするのもどうかと思うが、実際自分たちの年齢は性根なのだから特に問題はないだろう。
「お、おはよう。み、み、みかけない顔だけど、もしかして、て、転校生?」
「そうなんだ。今日からこの学校でお世話になる弦中春斗、春斗って呼んでもらえると嬉しいな」
「ぼ、僕は高橋伊織、伊織って呼んでね」
「よろしくね、伊織君」
「う、うん」
少しコミュニケーション能力に難があるような気はするが、久しぶりにまともな人間と会話を出来ている様な気がしてなんだかんだテンションが上がっているのを自覚する。やっぱり文章で会話できるって素晴らしい。ありがとう高橋。
「そういえば、同じ色のネクタイをしているけど、もしかして同学年なのかな?」
「あ、っと、そうだね。この学校は学年でネクタイの色が指定されているから、水色のネクタイだから同じ二年生だね。という事は同じクラスだ」
同 じ ク ラ ス だ ?
同学年だからという情報だけでそれが確定するのか。なるほどなるほど。つまりこの学校はそういう事なんだな。
マ ジ で 過 疎 っ て や が る!!
流石田舎の中学校。地方の学校はどんどん統合されているとは聞いていたが、まさか一学年一クラスという高校の特進クラスでもあまりみない構図が存在していたのか……。
「伊織君と同じクラスなのは嬉しいな。一人でも知ってる子がいるだけで最初の自己紹介の時に緊張しすぎないでいられそうだよ」
「な、ならよかった。あ、そうだ。教室まで案内しようか?」
「え? 今から?」
「う、うん」
え?普通転校生とかは余計な混乱を招かないために先生引率で初めて顔合わせするんじゃないの?もしかして田舎だと先生に案内される前にお山のボス猿に事前に挨拶しておくみたいな慣習でもあるのか?まあ、郷に入っては郷に従えというし、いっちょかましてやりますか。
「じゃあ、案内してもらえるかな?」
「う、うん。こっちだよ」
高橋少年による案内の元無事教室まで辿り着いた。そして中には誰もいなかった。
「ねえ、もしかして……」
「あっ、ち、違うよ。みんな結構ぎりぎりに来る子たちばかりだから、今の時間はまだいないだけで、後少ししたら登校してくるはず……多分」
「そっか」
「う、うん」
……今ここに来た意味なくね?それなら別に職員室前で待って普通に紹介されるので良かった気もするが、まあ、高橋少年はこっちが緊張していると思って好意からしてくれた行動に違いない。俺のカロリー返せ。
そんな事を思いながら高橋少年の方を見るといつの間にか一冊の本を取り出して読んでいた。気になるそのタイトルは……何も見なかった事にしよう。そうしよう。まさかそんな事を考えているなんて思ってもみなかったよ。高橋少年。
「おっはー!!!!」
高橋少年の意外なチョイスに面食らっていると某高収入求人広告カーが直ぐ近くを通った様な爆音で挨拶する声が後ろから聞こえ俺の鼓膜は破け、人間という生き物に恐怖を抱き俺の冒険はここで終わってしまった。
なんて事もなく、はた迷惑なやつの顔を一目みてやろうと振り返ると超至近距離に女子の顔があった。
「……おはよう」
「あんただれ!」
思った以上に近い距離にいた事に驚いて少し後ずさりながら挨拶を返すと離れた以上の距離を一歩近づいて至近距離誰何を食らった。あの、唾思いっきり顔面にかかったんですけど……。
「今日からこのクラスでお世話になる弦中春斗です。よろしくお願いします」
「春斗! 私は優衣! よろしくね!」
五月蠅い、元気、近い。いや元気だから近くて五月蠅いのか?というか田舎の人間はパーソナルスペースというものを知らないのか?
そんな事を考えながら愛想笑いを浮かべて一歩後ろに下がるとその分だけ詰めてくる。
「あの、優衣さん」
「優衣でいいよー!」
「じゃあ、優衣」
「なにー!?」
「近くない?」
「あ、ごめん!」
まだシティボーイの感覚ではかなり近いが、まだ普通にコミュニケーションが取れる程度の距離を取ってくれて安心した。これからずっとあの声量をあの距離で浴びせられたら冗談抜きで鼓膜が破れるところだった。
因みに、高橋少年は気づいたら自分の席らしき場所に着席し、イヤホンをつけて優雅に読書していた。この恨み晴らさでおくべきか。いいや、晴らさずにはいられない。
人数的にあるのかわからないが球技の時は流れ弾に気をつけておけよ。出来る男のリーダーシップ論とかいう本を読んでるビジネスマンまがいの高橋少年。
そんなこんなしていると職員室に来るようにと指定された時間の10分前となっていた。流石に時間遵守の優等生としてはそろそろ向かっておきたいため、この場を離脱する事を二人に告げる。
「そろそろ職員室に行かないといけないから、二人ともまた後でね」
「ん、またね」
「また後でねー!」
朝から中々個性的な二人と関わったせいで若干心労が積もっている様な気がするが、仕方ない事だと割り切って職員室に向かう。もちろん疲れた様子はおくびにも出さず、いかにも朝から精力的でやる気に満ち溢れてますよという顔で堂々と校内を闊歩する。
目的地の大職員室は西棟二階の最奥に位置している。因みに俺や高橋少年のクラスは東棟三階の2-Aだ。隣に椅子と机が奥に集められていた2-Bと書かれた教室があったが、いったいいつから使われていないのかは考えたくない。
中学二年生が特別少ないだけで他の学年はそこそこ生徒数が多い事を期待しておこう。全校生合わせて70人いないとかならびっくりして腰を抜かしてしまうかもしれない。
そんなこんなで職員室前までやってきた。職員室の入り口直ぐ横に全身鏡(かなり曇っている)があったので、そこで身だしなみをチェックし、付け入る隙がない優等生モードに切り替えて職員室のドアに手をかける。オープンザドアー。