袖振り合うも多生の縁
発車直前の電車に飛び乗り、息を弾ませながら窓際の席に座った。すぐに動き出した電車は、ガタンゴトンと体に響く音を早めていく。ガラスに写る自分のシルエットを見て、乱れた髪を直した。
初めての一人旅。大学が夏休みに入ったら、失恋旅行しようと決めていた。
よかった、天気が良くて。このまま晴れてくれれば、夕方には瀬戸内海に沈む夕陽を見られる。屋島の夕焼けはきれいだってアキラが言ってたから、最初の行き先はそこにしようと決めた。
私の心、アキラのせいでかさかさにひび割れてた。私たちが別れてすぐ、アキラは私とバンドを組んでる彩乃と付き合い始めた。そんなことをする彼の神経がわからない。いや、そういう人だと薄々感じてはいた。アキラには、自分がしたいと思ったことは周りに何と思われようと押し通すところがある。きっと彩乃に「百合子のことなんて気にするな。今おれが好きなのは彩乃だ」なんて口説いて、ぐいぐい自分の方に引っ張っていったんだ。彩乃は私に悪いと感じながらも、アキラを好きになっていくのが止められなかったんだと思う。私と彩乃とアキラの関係は軽音部の噂になっていて、私は腫れ物に触るように扱われている。
息苦しさから逃れたくて、少しの間でも日常を離れようと決めた。鉄道に揺られてぼーっとする計画で青春18切符を買い、名古屋から各停を乗り継いできた。四国の屋島へは、山陽本線に乗って岡山経由で行くほうが早いけれど、少し遠回りでも景色のよさそうな赤穂線を選んだ。
播州赤穂駅で乗り換える。四人掛けのボックスシートで誰も座っていないところを探して、隣の席に荷物を置いた。車窓から見える景色は、街中のビルが並ぶ様子から、一軒家の連なりへと変わっていく。
一人で四人席を独占するつもりでいたら、大きなバッグを下げた制服姿の男子が「ここいいですか?」と声をかけてきた。え? ほかに空いてる席ないの? 私は立ち上がって隣の座席に置いた自分の荷物を荷棚に上げながら、車内を見渡した。たしかに、誰も座っていないボックスはない。しかたないから「どうぞ」と返事して、席に座った。
私の斜め前の席に大きな体を窮屈そうに収めた男子は、高校名が書かれたバッグをゴソゴソかき回していたと思ったら、中から毛糸の塊を出してきた。その男子が編み物を始めたのを見てびっくりした。電車で編み物? しかも夏の暑い時期に?
男子は私の視線に気づいたのか、顔をあげてニコッと笑いかけてきた。まるで前からの知り合いのように自然な笑顔だったから、こちらの不審顔が申し訳なく思えた。
「編み物、趣味なんで」
「はぁ」
ちょっと語尾を上げて感心したふりをして、心の中では「かわった子」とつぶやいた。電車の中で編み物をする男子には初めて会った。「はぁ」という言葉以外思いつかず、窓の外の流れる景色に目をやる。次第に家と家の間が広がり、遠くには山、手前には家と田んぼの田園風景に変わっていく。
編み物といえば、アキラのセーターを編んだなと思い出す。私の手編みを欲しがるのが愛しくて、不器用なのにがんばった。でも出来上がったころには私たちの仲はギクシャクしていて、何とか仕上げて渡したセーターも、アキラが着ているところは見られずじまいだった。
私がぼんやりしている間に、男子は自分の手元に視線を戻し、再び編み物を始めた。四人掛けのボックスシートは静かになり、電車が走る音と、男子が編針を動かす気配と、時折毛糸が引っ張り出される摩擦音だけが聞こえる。
窓枠に頬杖をついて景色を眺める。田んぼの緑は好き。中学生の頃、休み時間のたびに、校舎の窓から田んぼを眺めた。心の中で「風よ吹け!」と念じると、不思議なことにさぁっと稲の緑が揺れる。天気が良い日の緑の田んぼはいつ見てもきれいで、授業の合間のひと時で目と心が潤っていった。今もこうやって稲の緑に癒されている。自然の景色は偉大だな、と思ったら突然じわっと涙がにじんで、自分でもびっくりした。
電車がトンネルに入り外の景色が消えた。うつむいて目尻をぬぐうと、斜め前の男子の足元が見えた。黒いローファーと制服ズボンの間にみどりの靴下がのぞいている。さっきまで見ていた、太陽に照らされたピカピカの稲のような蛍光緑。男子の足元に田んぼの残像が映ったみたいだ。制服と蛍光緑の靴下の組み合わせが新鮮だった。斜め前に座った男子に興味がわく。私は心の中で男子の呼び名を「みどり君」と決めた。
みどり君が編んでいるのは、ピンクと紫の中間ぐらいの、柔らかで可愛いけど派手すぎない色の何かだ。素敵な色だったので、思わず話しかけてしまった。
「きれいな色ですね」
みどり君は顔をあげると、私に向かって少し手元をあげた。
「これっすか?」
「ええ。何編んでるんですか?」
「ネックウォーマーです。ばあちゃんが寒がりで」
女の人が好きそうな色だから女性ものを編んでいるのは予想できたけど、まさか、おばあちゃんのためとは思わなかった。
「おばあちゃん孝行ですね」
「あ、血のつながったばあちゃんじゃなくて、お隣さんです」
「そうなの! すごいね」
思わずため口がでた。私には人見知りなところがあって、普段は初対面の人と気軽に話せない。でもみどり君は人の心を開くオーラみたいなものを発していて、不思議と話しづらさを感じなかった。トンネルから抜けて車窓は明るくなったけど、このまま話したくて話題を探す。
「編み物はいつから?」
「えー、いつからだろ。小一ぐらい?」
「へぇー」
「俺、『若草物語』の、ベスが隣のじいさんに部屋ばきをプレゼントするシーンが好きで。ばあちゃんに編んでるのは、その真似みたいなもんです」
『若草物語』、しかもベス好きな子が、編み物しながら「俺」っていうのが面白い。偉ぶったり自慢している口ぶりではないところには好感が持てる。
「私はジョーが好き。あんな風にさばさば出来たらなって思う」
「ジョーとベスは一見正反対みたいだけど、芯の部分が似てるんすよ」
私たちは『若草物語』で盛り上がった。出会ったばかりの人とこんなに話せるなんて、自分でもちょっとびっくりする。
ガタン、と電車が音を立てて止まった。日生駅に到着。海に突き出した山には、緑の「ひなせ」の字が浮かび上がっている。ここにきて初めて海や島が見えて、瀬戸内らしい景色が目の前に広がった。日生は小豆島行きのフェリーの発着場所で、駅の前にはちょうどフェリーが止まっていた。空の青と船体の白のコントラストがいかにも夏らしい。
フェリーから降りてきたと思われる乗客が、電車にどやどやと乗り込んできた。私たちのボックスには、つば付きの帽子をかぶった小学生ぐらいの女の子とその母親らしき人がやってきた。私のはす向かいに座っていたみどり君は、急いで私の正面に移ろうとしたけど、ふと思いついたように女の子にたずねた。
「窓際の方がいい?」
「いえ、大丈夫ですよ。あ、あ、すみません、ありがとうございます」
関西弁のアクセントで話す母親は、私の隣に移ったみどり君に頭を下げ、女の子を窓際に行かせて自分もその隣に荷物を置いた。静かだった車内は、人が増えてざわざわとにぎやかになる。
私の正面に座った女の子は、帽子を母親に預けて席に落ち着いたところで、かわいい声で聞いてきた。
「お兄ちゃん、何してんの?」
一年生か二年生ぐらいだろうか。肩までの髪がつやつやして、前髪は汗でおでこに張り付いている。黒目が大きくて人懐っこそうな顔、関西弁の話し方が可愛い。編み物が気になるのは、私と同じみたいだ。
「これ? 編み物。首に巻くもの作ってる」
みどり君はさらっと答えた。
「触ってもいい?」
「ほのか、お兄さんの邪魔したらあかんやろ」
女の子をとめるお母さんに、みどり君は「いいよ」と編み物を差し出す。女の子は表面を手で撫でると、
「気持ちええな」
と言った。私も肌触りが気になっていた。夏にネックウォーマーって、ちくちくしないのかなと。私が思ったことが伝わったのか、みどり君は女の子から受け取るとわたしにも触らせてくれた。編み目は緩すぎずきつすぎず、しなやかな手触りで、見た目よりも軽かった。
女の子は得心したようだ。視線は編み物から母親に移る。
「お母さん、お腹すいた」
「はいはい」
母親は立ち上がって、荷棚の荷物から袋菓子を取り出して女の子に渡した。私とみどり君にも「よかったらどうぞ」とすすめてくれる。私が遠慮しようとしたら、みどり君がすぐに「ありがとうございます!」と受け取るので、つられて手を出してしまった。もらったのはカントリーマアム。四人掛けのボックスシートは、ガサゴソと袋を破く音と、お菓子のほのかに甘いにおいが漂う。
カントリーマアムをあっという間に食べ終わったみどり君は、大きなバッグを開けて何かを探し始めた。中には、タオルや練習着らしいものに交じって、文庫本三冊とバスケットボールが入っているのが見えた。思わず聞いてしまう。
「バスケやってるんですか?」
「あ、部活で。汗くさいっすね」
慌てて練習着を奥に突っ込む。
蛍光緑の靴下と編み物と若草物語とバスケ部と読書。一貫性があるような、ないような、不思議な組み合わせ。色んな事が両立できる子なんだ。
みどり君はバッグから、赤地に白い字で「都こんぶ」と書かれた箱を出してきた。
「食べます? 袋に入れてたんで、汗くさいの、多分大丈夫です」
女の子の母親は、意外というか面白がっているというか、笑いをこらえたような顔で、
「うわっ、懐かし。これおいしいのよ。いただいちゃう」
と言って、白い粉のついた昆布を箱から一枚抜き出した。女の子は今まで食べたことがないようで、恐る恐るという感じで手を出す。ちょっとなめて、口に入れるかどうか迷ったみたいだけど、思い切ってパクっと食いついた。ゴクンと飲み込むと複雑な顔をした後、「ちょっと酸っぱいけど、おいしい………かも」と言うので、みんなで笑ってしまった。私も初めて食べる味だけど、甘さとしょっぱさと酸っぱさが絶妙なバランスで成り立つおやつだった。
「部活の後はいっつも、この酸っぱい味が食べたくなるんすよ」
「都こんぶって、私が子供のころからあるお菓子やわ。よう知ってるねぇ」
女の子の母親が感心したように言う。多分、隣の家のおばあちゃんに教えてもらったんだろうな。みどり君とピンクのネックウォーマーをつけたおばあちゃんが、縁側に腰かけて都こんぶを食べているところを想像して、くすっと笑った。この男子、掘れば掘るほど面白いことが出てきそうだ。
電車は邑久駅についた。車内に「おくえき~」とアナウンスが流れる。
母親がちらりと荷棚の荷物を見て、「旅行ですか?」とわたしにたずねてきた。
「はい、四国を周ろうと思って」
「一人で?」
「はい」
「かっこいいっすね」
と、みどり君が言う。かっこよくないよ、失恋旅行だもん。
母親に「どの辺を周るの?」と聞かれた。
「最初に屋島に行ってみようと思ってます」
「屋島ね、行ったことあるわ。高台からの眺めがいいよぉ」
「そうらしいですね。知り合いから、夕陽がきれいだって勧められました」
ちらりとアキラの顔が頭をよぎる。
「牛窓の夕陽もいいっすよ」
みどり君が私の顔を見る。
「好きな子にふられたときは、家からチャリぶっ飛ばして、牛窓の夕陽に『バカヤロー』って叫びました」
「わぁ、青春」
母親がおかしそうに体を揺らす。
「お兄ちゃん、ふられたん?」
女の子とみどり君が話すのを聞きながら、私は自分の未練たらしさが情けなくなってきた。なんでアキラが教えてくれた屋島なんかに行こうとしてるんだろう。
行き先は変更だ。宿をとっているからとりあえず四国に向かうけど、帰りに牛窓に寄ろう。みどり君みたいに、夕陽に向かって「バカヤロー」って気がすむまで叫ぶんだ。
電車の終点、岡山に着いた。同じボックスシートに乗り合わせた私たちは、それぞれの目的地に向かう。親子連れは山陽新幹線に乗り換えるらしい。みどり君はバスに乗って家に帰ると言った。
大きなバッグを肩から下げたみどり君は、初めて言葉を交わしたときの、昔からの知り合いのような笑顔で、「いってらっしゃい!」と手を振ってくれた。別れた後に振り返ると、靴下の色が目に飛び込んだ。蛍光緑の靴下は、ずんずんと人ごみの中を遠ざかっていった。