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春の女王

 とんっ、と彼女が大地を踏む。

 


 その直後、窓ガラスが風で震えた。


 彼女は窓の向こうで踊り続けていた。天へ腕を伸ばし、ドレスの裾をひるがえして、くるりと回る。たたんっ、と左足と右足が跳ね、長い髪が空気をふくんで広がる。

 眼下の校庭では、彼女の動きに合わせて砂が舞い上がっている。飛ばされた砂が窓に当たって、バチバチと音を立てた。


「今日は風が強いなぁ」


 教師が思わず、といったふうに呟く。その台詞にクラス中の視線が窓へと向かった。史織(しおり)はそっと落書きを教科書の下に隠して、今度は堂々と外を眺めた。



 彼女は口元に笑みを浮かべ、長い睫毛を震わせる。彫刻のように整った顔も、跳ねる白いふくらはぎも、ひらりと広がるドレスも、一度も休まることなく楽しげに舞う。


 ―――春の日差しに、彼女の頬が透ける。



 不意にチャイムが鳴り響き、史織は黒板へと視線を戻した。いつの間にか黒板いっぱいに文字が書かれている。まだ三分の一しか写せていないのに、日直が容赦なく黒板消しを振るう。


 あーあ、と溜息を零しながら、史織はノートを閉じた。あとで、(ともえ)に借りよう。

ふと窓の向こうを見たが、彼女のいない校庭に穏やかな日差しが降り注ぐだけだった。






「史織!部活行こう!」

 HR後、いつものように巴が呼びに来た。


「ごめん、今日は早く帰るから!」

「じゃあ、途中まで一緒に行こー!」


 史織は急いで鞄に荷物を詰め込む。じゃあね、またね、とクラスの友人たちに手を振った。その慌ただしさに、扉に寄りかかっていた巴は笑みを零す。


「何か、家の用事?」

「うん。親戚が亡くなって……。明日お通夜だから、朝からその手伝いに行くの」

「それはそれは、御愁傷さまデス。――じゃあ、明日明後日は学校休み?」

「うん。その予定」


 巴にノートの話をして許諾をもらう。とはいえ、借りるのは週明けになるだろうな、と史織は苦笑した。試験はまだ先じゃん、とお気楽な巴は笑い飛ばす。


「部活の先生には?私が伝えとこうか?」

「ううん、大丈夫。今朝伝えといたから」

「そっか。課題は間に合いそう?」

「一応は。風景画にしようと思ってる。いつもどおり、画材は水彩かな。巴は?」

「私はまだ悩んでるとこ!描くのは好きだけど、史織ほど上手くないしね。

 でも、スケッチしに行くときは誘ってよ!お菓子買って、ピクニックしながらにしよう!」

「あはは。了解!」


 空いていた廊下の窓から、ふわりと風が入り込む。それは巴の顔に直撃し、その前髪を持ち上げた。わっ!と隣で声が上がる。「いたずらな風だなぁ、もう!」頬を膨らませながら前髪を丁寧に直す友人に、史織は小さく笑った。


「春一番、だっけ……、今日は風が強いね」



 窓枠の端の方に、一瞬だけ彼女の髪がよぎった。



「本当に、ね」

 ――本当に、今日は彼女がよく踊る。



 *****



 亡くなったマリ子おばあちゃんは、曾祖母の妹にあたる人だ。

 戦争で夫を亡くし、息子も幼くして亡くなったために、田舎に一人で暮らしていた。小さい頃は何度か泊りがけで遊びに行っていたが、中学に上がってからは一度も行っていない。


 朝早くから車でマリ子おばあちゃんの家がある伏美女に向かう。着くのは昼前になるだろう。すでに後部座席では、妹が母親の膝を枕に眠っていた。


「史織も、寝てていいぞ」

「テスト期間は朝早く起きてるから、これくらい平気」


 ややあって、二人分の寝息が聞こえてきたため、史織は振り返る。

「母さんも眠っちゃったみたい」

「あぁ………疲れたんだろう」

 父の言葉に何も云わずに頷いた。


 車窓の向こう側で、通りの木々が流れるように通り過ぎる。


 母は、マリ子おばあちゃんを長年一人にさせてしまったことを後悔していた。

 「老人を独り放っておくなんて――っ!」親戚からの電話の後、母はそう声を上げて泣いていた。距離的にマリ子おばあちゃんの家と一番近かったのは我が家だし、曾祖母より祖父と年齢が近いため伯母ように父は接していた。同じように慕っていた伯父伯母から、訃報のついでに何か云われたのかもしれない。

 そのとき、父はまだ仕事から帰っていなかった。妹は慰めようと母の背を優しくなでていた。史織は―――――



 ――――あぁ、『そのこと』しか悔いてないんだね。

 喉元まで込み上げた失望を、“家族の情”という名の理性で呑み込んだ。



 こっそり溜息を吐く。せっかく運転中の話し相手になろうと起きていたのに、学校のことを話せば早くも話題が尽きてしまった。……そういえば、父と話をする時間があったのは何年ぶりだろう。


 結局、史織は諦めて鞄からイヤホンを取り出した。



 *****



 マリ子おばあちゃんの家には、すでに親戚や近所の人が集まっていた。ご挨拶を繰り返しているうち、一番大きな座敷に案内される。

 真っ白なお布団に包まれて、マリ子おばあちゃんは安らかに眠っていた。



 ………お久しぶり、だね。マリ子おばあちゃん。



 ふんわりとした白髪が、人が動くのに合わせてふわふわ動く。座敷に差し込む陽の光が、目尻の皺をわずかに濃くした。記憶よりも小さくなったみたい。史織の知っているマリ子おばあちゃんは“おばあちゃん”だったけど、更に“おばあちゃん”だなぁ。………本当は少し恐かったのだけど、変わらない安らかな面差しにほっとしていた。


 焼香を済ませて、後ろに座っていた父に順番を譲る。妹の怪訝そうな声に振り向くと、座敷の入り口で母が立ちすくんでいた。

 妹に手を引かれて、ようやく震える足で畳を踏む。きっとこれから、マリ子おばあちゃんの前で母は泣きだすのだろうな……。そんな陳腐な場面をわざわざ眺めているのも馬鹿々々しい。親戚たちに軽く会釈し、さっさと座敷から抜け出すことにした。






 「ごめんください」と玄関から声がかかる。


 本来は誰かしら親戚が玄関先にいるのだが、偶々離れていたらしい。台所でお茶の用意をしていた伯母が、「はぁい」と暖簾をくぐって出て行った。あらぁ!と嬉しげな声に、史織も廊下の陰から顔を出す。


「――こんにちは。このたびはご愁傷様です」

「いえいえ。来ていただいて、本当に有難う御座います。マリ子おばさんも喜んでいるわ」

「そうだと嬉しいです。ご焼香だけ、させていただけませんか?」



 はじめ、その子が『何か』分からなかった。

 たぶん見惚れていたのだと思う。―――――だって、光っているように見えたから!



 少女の薄い茶髪が、背後からの陽の光で金色に輝く。黒い服から白い手足が覗き、幼さの残る顔にはやわらかな笑みを浮かべている。


 マリ子おばあちゃんに天使がお迎えに来たのかな?


 一瞬本気で考えたが、「うちは仏教だ」と思い直す。現に幻でも何でもなく、伯母さんと和やかに談笑している。よく見れば、少女が着ているのは冬服のセーラーだ。近所の学生なのだろう。可愛いなぁ、と史織はこそこそと眺めていた。


 少女は伯母に案内されて家に上がった。座敷に向かうようなので、鉢合わせしないように史織はその場を離れる。だがついつい気になってしまい、廊下を回り込むようにその背を負った


 座敷では既に集まった親戚たちが話し込んでいるようだった。女性陣はみんな通夜の用意で忙しいので、ここにいるのはおじさんたちとめそめそして使い物にならない母くらいだ。妹もいつの間にか従妹たちと抜け出している。

 祖父が伯母に声をかけられ、少女の元に歩み寄る。


「これは、これは、………お忙しいなか、有難う御座います」

「ご無沙汰しております、春馬(はるま)さん。このたびはご愁傷様です」

「以前は、花菜絵(かなえ)の七五三のときでしたか、もう二年も前ですね。長らくご無沙汰しておりました。――さぁ、どうぞこちらへ」


 自然と人が動き、真っすぐ祖父と少女がマリ子おばあちゃんの傍に向かう。小柄な背中が焼香を行い、手を合わせた。それから祖父と二・三言交わし、少女は鞄から小さな袋を祖父に手渡す。丁寧に礼をする姿は、子どもなのに年季を感じるような所作だった。それから周りにいる親戚とも挨拶を交わす。彼女を知っている者も知らない者もいたようだが、つつがなく応えているようだった。


「………何なの、あの子」


 ぽつり、と

 母がそう口に出す。


 本来なら傍にいた父だけに向けた言葉だったが、折悪しく会話が途切れたところだった。批難というより疑問を口にしたようだったが、その言葉に含まれる部外者への不審感もしっかり滲んでいた。

 予想外の事態に、おろおろと母は視線を巡らす。少女が振り返る前に祖父が低い声を向けた。


「――昌義(まさよし)美佐江(みさえ)さんを連れて外に出てなさい」

「えっ……!お義父さん、ごめんなさいっ!私は、ただ………」

「昌義」

「………美佐江、行くよ」

「そんなっ!何でよっ!だって、おかしいじゃない!あんな髪色!不良みたい……っ」

「黙りなさい、美佐江!」


 父に叱られて、ようやく母は“客”を振り向く。動揺に任せて年端もいかない少女に暴言を向けていたことに気づいたようだ。あ、と小さく声を上げて固まってしまう。

 少女は周りから居心地の悪い視線を受け、苦笑を零した。


「春馬さん、私なら大丈夫ですよ。慣れていますし、」

「ですが! 身内の者がとんだ無礼を……!」


 まあまあ、と祖父をやんわりと宥める。


「『外』からいらっしゃった人には物珍しいのでしょう、この髪色が。ハーフのような顔立ちでもありませんし、不審に思うのも当然です。

 それに、こちらもまだご挨拶しておりませんから。戸惑っているのも、仕方ないかと」


 肩先で揺れる髪に触れ、少女はにこりと微笑む。祖父はまだ納得しかねるようだったが、彼女がそう云う手前、苦々しげに言葉を呑み込んだ。


 彼女は未だ狼狽している母の前に座り、畳に手をつく。


「お初にお目にかかります。私は、伏美女神社にて『(みこと)』の名を頂き、姫巫女を務めている者です。

 マリ子さんには生前、このあたりの祠の管理など、何かと手伝って頂いたもので………。今日は最後のご挨拶に参りました」

「は、はぁ……」

「困惑させてしまい、申し訳ありません。マリ子さんのお顔も見れたので、お暇させていただきますね」


 失礼します、と頭を下げた姿に、母はようやく平静さを取り戻したようだ。

「………先程は失礼しました」

 姿勢を正し、途切れそうなほど小さな声だったが謝罪を口にした。少女は頷いたようだ。「命さま」と祖父の呼びかけに、落ち着いた声で告げる。


「それでは、春馬さん。私はここで失礼しますね」

「もう少し、ごゆっくりされても………」

「いいえ。元よりマリ子さんにお別れを云いに来たのですから。穏やかなお顔で、ほっとしました。

 これから他の方もご挨拶にいらっしゃるのでしょうし、私はここでお暇させていただきます。どうか、最期はご家族みなさんで見送ってあげてください」


 少女は立ち上がり、座敷の人々に礼をした。

 大人たちは申し訳なさそうにぱらぱらと頭を下げた。


 少女はそのまま座敷を出たが、人がいると思わなかったのだろう。史織を見て、驚いたように足を止めた。史織は口を開こうとしたが、その前に祖父の叱責する声が聞こえてきたため、慌てて少女の手を引いて外に出た。






 「座敷から遠く、落ち着いたところ」と考えて、マリ子おばあちゃんが毎日手入れをしていた庭に行きつく。


 おそらく、あの騒ぎで座敷に入れなかったのだと思われたのだろう。「ごめんなさい」と少女は眦を下げた。史織は罪悪感で胸がいっぱいになりながら首を振る。


「……あれ、私の母なんです。本当に失礼しました」


 勢いよく頭を下げた史織に、少女はぱちぱちと目を瞬かせた。――座敷ではさらりと対応して見せたが、こうして戸惑っている様子は年相応だ。


 制服の校章に『中』と入っているから、地元の中学生なのだろう。並んでみると、平均より小柄な史織より、さらに頭半分くらい小さい。

 淡い色合いの髪が風に揺れる。全体的に色素が薄いが、目の色だけは黒褐色だった。それがなおさら小動物のようで可愛らしい。

 その瞳が身長差故に、やや上目遣いで史織を見た。


「あの……本当にあまり気にしていないので大丈夫です。よくあること、なので」

「………本当にすみませんでした」


 「(みこと)さまは………」と云いかけた史織に、少女は制服のネームプレートをつまんではにかんだ。

「『(みこと)』というのは、姫巫女としての名前なんです。―――私は、(さかき)菜乃葉(なのは)と云います。お仕事中ではないので、どうぞ『菜乃葉』と呼んでください」


 「立ち話もなんですから」と濡れ縁を進められる。史織は少し逡巡したが、促されるままに濡れ縁の方へ歩いた。少女は史織を座らせて、隣に自分もスカートを整えてから腰かける。


「私は、斎藤(さいとう)史織(しおり)と云います。マリ子おばあちゃんの姉のひ孫……です。」


 彼女は「あぁ、貴女が史織さん」と納得したように頷いていた。「マリ子さんから、よく貴女の小さい頃のお話を聞いていましたよ。よく祠のお世話を手伝ってくれた、って」


 そのことは史織もよく覚えていた。マリ子おばあちゃんは朝と夕、近所の祠や社を巡る。花を手向けたり掃除をしたり、日によってすることも異なるが、必ず出向き手を合わせていた。その時間だけは優しいマリ子おばあちゃんを独り占めできるので、かなり頑張って早起きしたものだ。

 信仰心とか、そういうのはまだわからなかったけれど。それでも毎日挨拶していると愛着も沸くし、たまに近所の人から褒められてお菓子をもらえるからとても楽しかった。


「よかったです、お元気そうで。マリ子さんも気にかけていたから」

「私を?」

「えぇ。……心配、しておられましたね」

「―――母のことでしょう?」


 史織は苦笑すら浮かべられなかった。母とマリ子おばあちゃんは喧嘩別れのような最後となってしまった。……もっとも、一方的に母がマリ子おばあちゃんに怒鳴り散らしていたのだが。

 思えば、あれが家族全員でマリ子おばあちゃんの家に行った最後だったのだろう。それからは母とまだ幼かった妹を置いて、史織と父だけで遊びに行っていた。それでも父が母に気を遣ったためか、徐々に回数は減っていった。

 そういえば、あのときも父はいなかった。後から騒ぎについて聞いただろうけど、母もマリ子おばあちゃんも詳しいことは話さなかったのだろう。だから父は母が避けるようになった理由を知らないのだ。せいぜい嫁姑問題のようなもの、と捉えているくらいで。


 史織は俯いた。ややあって躊躇いながら口を開く。「巫女さんは………幽霊とか、見えるんですか?」


 きょとん、と彼女は大きな眼を見開く。「そうですね、」と深く考え込むように口に手を置いた。「見えてる……んだと思いますよ、やっぱり、他の方よりは。けれど、何もかも全てが見えるというわけでもないですから」

 顔を上げた史織に、本当に見たいものは見えないものなんです、と困ったように微笑む。


 そういうものなんだろうな、と史織も頷いた。見えなくても困らないものは見えるのに、心の底からありったけの思いで「会いたい」と願っても、マリ子おばあちゃんの姿はちっとも見えない。

 ………会って、母のことをきちんと謝りたかったのに。



「………昔から、私にだけ、見えるものがあるんです」



 思ったより声は震えていなかった。そのことに、自身のことながら安堵する。

 未だに記憶の暗がりで泣いている幼い自分はいるが、それはやはり過去のことなのだろう。何年も目を背けていたためか、トラウマになるような心の傷は残っていなかったようだ。……ただ時折思い出したように、引き攣るように疼くのだが。

 痛みに引きずられぬよう、そっと背筋を伸ばす。


「それがなんなのか、私にはずっとわからないんです。……でも、気づいたときには見えていました。

 春になると『彼女』は現れます。強い風の日に、丈の長いドレス姿で、楽しそうに踊るんです。自然といつのまにか消えていて、また現れたり次の春まで姿を現さなかったりするんです。

 ………それで、小さい頃、マリ子おばあちゃんの庭で、『彼女』が踊っているのを見ました」



 この庭で、彼女はいつもどおり踊っていた。


 そのとき史織は縁側に寝そべってチラシの裏紙に絵を描いていた。通りかかったマリ子おばあちゃんは史織のはしゃいだ声と、夢中になって描いていた絵を見て「綺麗ねぇ」とにこにこ笑ってくれた。

 褒められて有頂天になっていた幼子は、母にも見てもらおうと部屋に駆け込む。

 母親はその絵を見て、はじめは絵本の中の登場人物だとおもっていたらしい。妹をあやしながら、適当に褒めてくれた。けれど、その人を庭で見たのだ、と話すと途端に顔を強張らせた。

『――どうして、ママにそんな嘘つくの?』

『嘘じゃないよ!本当にいたんだもん』

『いい加減にしなさいっ!』


 パンっ、と

 左耳で音が弾ける。


 右肩を床にぶつけた衝撃で、頬を打たれたことに気づいた。過呼吸を起こしながら泣き喚く史織と、姉の泣く声に触発され泣きだした妹に、母は狼狽えるばかりだった。

 ややあって幼子二人の尋常じゃない声に駆けつけたマリ子おばあちゃんに、母は八つ当たりのように詰ったのだ。


 ―――「お前のせいで娘がおかしくなったんだっ!」と。



「たぶん元々、私がマリ子おばあちゃんになついていることが気に入らなかったんだと思います。マリ子おばあちゃんが祠を廻っているのも気味が悪かったみたい。私に変なものが見えたことを、マリ子おばあちゃんのせいにして―――――自分が吐き出した言葉に、自分で怖くなって。

 何よりマリ子おばあちゃんと顔を合わせづらかったんでしょうね。それから、母はここに来なくなりました。たまの訪問も父と私の二人だけ。

 ……今は少し、母の『怖さ』の意味が理解できます。母には理解できないこと、なんでしょう。毎日祠のお世話に労力をかけるマリ子おばあちゃんも、変なものが見える私自身も。

 私だって、何で私にだけ見えるのか、理解できないのに」


 はぁ、と史織はわざとらしく溜息を吐いた。そのおかげで、ずっと目を伏せていた菜乃葉と目が合う。思いがけず重い話になってしまった。申し訳ない、と苦笑を零す。



「結局、彼女は何なんだろう?」



 思わず口から出た問いに、菜乃葉は口を結んだ。ややあって、マリ子さんは……、とぽつりと呟く。


「………我が子のようだ、とおっしゃっていました。自身がお世話していた神々さんのことを」


「子ども、ですか?」

 その言葉に史織は首を傾げ、先を促す。菜乃葉はこくん、と頷いた。「はい。マリ子さんはだいぶ前に、お子さんを亡くしておられますから………。マリ子さんのお子さんは当時八歳だったそうです。やんちゃな子で、すぐにはしゃいで熱を出すから、すごく手のかかる子だったと云っていました。―――その日も、いつものように熱を出して。お医者さんにも診せて熱冷ましも呑ませたのに、ちっとも熱が下がらなくって……………そのまま眠るようにマリ子さんの目の前で亡くなったそうです」


「だから、ずっと辛かったそうです。目の前にいたのに何もできなかった、苦しんでいたのに助けてあげられなかった、もう少しあの子のためにできることがあったんじゃないか、と……………何度もお子さんを思い出しては後悔しか浮かばなかった、と。

 それから時間をかけて少しずつ落ち着いてきた頃に、近所のおばあさんから祠の管理を任されたそうです。その方もお子さんを戦争で亡くしていて、ずっとマリ子さんを気にかけてくれたのだと。『あの人は私の性格をよく分かっていたんだろうね。元々世話を焼くのが好きだったから、すぐに日課になってしまった』とおっしゃっていました」


 菜乃葉はそっと笑みを浮かべる。「私もよく、お裾分けとか夕飯のおかずとか頂きました」マリ子おばあちゃんらしい、と史織も思わず笑った。


「毎日、お世話をしていると分かるんですって。『今日はご機嫌だねぇ』とか、『昨日は少し寒かったかい』とか、よく話しかけていらっしゃいました。毎年、雪が降る前にお地蔵さまに手編みの帽子とマフラーを編んで。夏には社の前に打ち水をして。……………春も、夏も、秋も、冬も、一年中。そういう些細なことまで気にして、心配して。それを何十年と繰り返して。

 『大人にならないから、私の子より手がかかる』と常々笑っておられましたね」


「―――伏美女には、たくさん祠があるでしょう?」

 黙り込んでしまった史織に、菜乃葉は尋ねる。俯いたまま頷いた。

 

「この里には数えきれないくらい祠とかお社があるんですよ。名前のないものも多いので、まとめて『伏美女の神々さん』って呼ばれたりしています。いっぱいあり過ぎるので、毎日のお掃除とかお供え物とかは、マリ子さんみたいに近所の方に手伝っていただいているんです。

 私の、姫巫女の仕事としては、祭事――祝詞とか儀式とか、そういうことを行っています。私はお祀りするのが仕事ですから、どの神も等しく神さまだと思って接しています。

 でも里の人たち、みんながそう、というわけではありません」


 しばらくして顔を上げた史織に合わせて先を続ける。「神さま、と祀ってくれる人もいます。云い伝えや由来を聞いて、『ここのは神さま、あっちのは神さまじゃない』って理由をつけて区別する人もいますし、都合のいい時だけ神頼みする、という人もいます。全く信じていないし頼む気もない、という人もいますね。お手伝いしてくれている人のなかには、マリ子さんみたいに『親戚や、子や孫のよう』という方も『物静かなご近所さん』という方もおられます」


「里の人たちは、伏美女の神々さんを大事にしてくれています。――けれどそれは、暗黙の了解のようなものなんです。この里ではどんなに小さい祠でも大切にするのが当たり前なんです。

 大事にすること、と、信じること、は、私は別だと思っています」

 彼女はそう、穏やかな表情で口にした。



「……史織さんに見える『彼女』が、私にも見えるかどうかはわかりません」

 史織が再び俯くと、菜乃葉は困ったように云い足す。「もしかしたら、全く別のものに見える可能性もなきにしもあらず、ですから」

 それでも、と彼女は云いかけて、花がほころぶような笑みを見せた。


「『彼女』が史織さんにとって素敵なものだ、って私は知っています。だから、もし私の目には映らなかったとしても、私は『彼女』の存在を信じたと思います。意識されていないのかもしれないけれど、『彼女』の話をしているときの史織さん、とても優しい目をされていましたから。マリ子さんがお世話している神々さんについて話すときと同じ、優しい目。

 だから、きっと凄く綺麗で素敵なんだろうなぁ、と、そう思いました」


 ですよね?と弾むような声音で尋ねられ、史織は頬を赤らめた。……図星だ。今までどんなに、母から疎まれようと、周囲に嘘つき呼ばわりされようと、『彼女』を見なかったことにはできなかった。


 だって、それ以上に、史織の目に鮮やかな姿を焼き付けるのだ!


 露をまとっていそうな瑞々しい手足に、気高さを思わせる凛とした横顔。纏うドレスは陽の光によって真珠色に煌めき、宙にたゆたう髪は透けて空の色を移す。――史織は『彼女』を見るたびに、五感の全て持っていかれるような心地になる。そして、それら全ての感覚を用いたとしても、『彼女』の一秒ごとに変わる美しさを余すことなく心に留めることはできないことに愕然とした。……写真に残せるものならば、何千枚と夢中で連写するのに。

 だから『彼女』に対して「怖いから見たくない」という感情は、そもそも存在していない。

 ――むしろ、いつ消えるかわからないのだから、何時間でも近くでずっと見ていたい。彼女以上に美しく心魅かれるものを他に見たことがない。


 史織は顔を覆い、深く溜息を吐いた。隣で菜乃葉が笑う気配がする。


「たぶん小さい頃の史織さんは、マリ子さんが大切にしているから、祠の神々を『大切にしよう』とお世話してくれたのではないでしょうか。――そしてマリ子さんも、史織さんの大切にしている『彼女』を大切にしていたと、そう思いますよ。マリ子さんにとって、史織さんはどの神々さんよりも、大切な、自慢の家族でしたから」


 ふと、懐かしい一つの光景を思い出した。


 早朝の、露を含んだひんやりとした草の匂いと鳴き出した蝉のまばらな声。ぼんやりと薄い水色に染まっていく空に、静かに手を合わせるマリ子おばあちゃんの横顔。瞳には優しい色が浮かんでいた。よく自分が持つと我儘を云って抱えていた籐の籠の隙間から、その穏やかな横顔を窺う。入れていた花々は、鼻に当たるたび甘い匂いがした。何度も顔を近づけては鼻先が花粉で黄色くなって、皺だらけの手にハンカチで拭われる―――、

 そのときの呆れたような笑顔も、同じように優しい瞳をしていた。


 ………あれは、たしか母が来なくなった年の夏休みだった。


 そういえば、あれから『彼女』について私は一言も話さなかった。母に否定どころか拒絶されたのがショックで、身近な大人が信じられなくなっていたのだろう。勝手にマリ子おばあちゃんもそうなのだ、と思い『彼女』のことは固く口を閉ざしていた。マリ子おばあちゃんの口からも『彼女』について訊かれなかったし………思えば、二度と話すものかと意地を張っている子に気を遣ってくれたのかもしれない。

 けれどその後も、マリ子おばあちゃんはちっとも変わらずに史織に接してくれていた。いつもどおり、ただの可愛い孫のように。たくさん甘やかしてもらって、可愛がってもらった。


 ……大切にして、くれていた。


 ぼうと遠くを見つめている史織に、菜乃葉は朗らかな声で語りかける。

「―――だから、何なのかさっぱりわからなくてもいいじゃないですか。

 マリ子さんが神々さんを大切にしていたように、史織さんも『彼女』を大切にしていいと思いますよ」


 ――貴女にとって『彼女』はどういう存在ですか?






 菜乃葉の言葉が頭の中で巡る。

 菜乃葉と別れてから、史織は知らないうちにマリ子おばあちゃんと巡った社の一つの前にいた。今でも別な人が管理しているのか、葉つきの蜜柑が供えられている。


 不意に、幼い頃チラシの裏に描いた『彼女』を思い出した。あれは結局どうしたのだっけ?母親にぐしゃぐしゃにされて、どっかに行ってしまった絵。


『史織は絵が上手だねぇ』


 マリ子おばあちゃんはいつも史織に優しかった。だから、そう――きっとあのときも、マリ子おばあちゃんは本心で「綺麗」と思ってくれたのだろう。『彼女』が実際にいたかどうかということではなく、史織の思った「綺麗」に共感してくれた。

 ……そう、すごく綺麗だったんだよ。マリ子おばあちゃんにも見せてあげたかった。―――今更ながら湧きあがる感情を噛みしめる。


 有難う、マリ子おばあちゃん。

 私もマリ子おばあちゃんのこと、とっても、とっても、大好きだったよ。


 さわさわと、社を囲む木々が揺れる。史織は潤む目を擦り、社に向かい手を合わせた。


「……私たちの代わりに、マリ子おばあちゃんを見守ってくださって、有難う御座いました」


 深く下げた頭をなでるように、暖かな風が社の方角から吹く。史織はちょっと驚いたが、風が通り過ぎるまで頭を下げ続けた。


 ……今、顔を上げたら、“何か”が見えるんだろうか。


 一瞬そんな考えがよぎるが、すぐに捨てた。たとえ見えても見えなくても、ただの風、とするより、神々さんの手、と思えるほうが嬉しいに決まっている。―――マリ子おばあちゃんの親戚の子、としての特別大サービスなのだと有り難く思おう。

 きっと気づかないだけで、案外この世にはわけのわからない存在が溢れ返っているのかもしれない。


 風が止んだ後、史織はもう一度頭を下げて社を後にした。

 マリ子おばあちゃんと廻った神々さんは、あと六つだ。せめてマリ子おばあちゃんの傍にいてくれたお礼くらいは伝えなくちゃ、と意気込む。


 ――だって、私と同じ、マリ子おばあちゃんの『大切な家族』なのだから。


 駆け出した史織を見送るように、杜はぱらぱらと翠玉色の木漏れ日を降らせていた。



 *****



 とんっ、と彼女が大地を踏む。


 両手は宙を泳ぎ、白い足は今にも次の動作へ移ろうとしている。風は色をまといヴェールとなり、頭上に輝く陽はまるで彼女を飾るティアラのよう。燦々と光を浴びて、彼女は当たり前の如く、悠然とした笑みを唇に湛える。

 絹のような細く、やわらかな髪先を空に溶かして―――――史織は絵筆を置いた。


 イーゼルから離れて全体の構図を見直す。……ドレスの裾の流れがおかしい、風のヴェールはもう少し華やぎがほしいし、何より『彼女』の美しさの十分の一も表現できていない。


 あああああぁ、と言葉にならない無念を一息に吐き出す。粘土を捏ねていた巴がその奇声に顔を上げた。


「できたの?」

「………全然、まだ駄目。自分の技量が圧倒的に足りないぃぃ……………」


 頭を抱える史織を横目に、巴はまじまじと絵を見つめる。「私は好きだけどなー」世辞が苦手な友人の言葉に、少しだけやる気を取り戻した。


「……有難う」

「どういたしましてー。でも、ホントに綺麗だよ!

 史織がファンタジーっぽい絵描くのって珍しいけど、すごくいいよね!この女の人すっごく美人だし!史織も絵描いてる最中、ずっとニマニマしてて楽しそうだったよ!」

 

 ニマニマって……。

 史織は真顔で頬を擦る。巴はその様子を一頻り笑い、再び絵に向き合った。「そういえば、この絵、タイトルは?」


 史織は絵を眺めてから、そっと視線を窓に向ける。

 若葉の芽吹く木々が、はち切れんばかりにふくらむ蕾が、暖かな季節の訪れを知らせる。彼女が風に乗せて運んできた季節が、空気を眩いパステルカラーに染めあげる。


 私にとって、貴女は………






「………春の女王、かな」






 圧倒的な美を掲げ、

 たくさんの春風たちを従えて、

――――――私に春を告げる者。


Copyright © 2020朔乃音糸世

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