なぜNTRという度し難い変態的な性癖が産まれたのか。そしてNTRは我々に何をもたらすのか。いや、もたらすどころか奪われてんだよなぁ。だが、それが良い。という考察
先に言っておきますが、私は正常、いいね?
NTRという概念は、一体我々に何をもたらすのか。
私にとってNTRというのは悪であり、悲劇、そして悪夢そのものである。
何故こんな概念が出来たのか、そして何故私はこの悪夢を見たがるのか。ここではそれについて考えていこうと思う。
私には、目に焼き付いている記憶がある。
あれは小学4年生の夏休みの事だ。
経験した人もいるのでは無いだろうか?
子供時代の儚い恋という奴だ。
彼女は近所に住んでいた女子高生。つまり年上の女性だった。近所でよく遊んでくれた、面倒みの良い優しい女性だった。
当時の私はちんちくりんの小学生であり、もちろん彼女の恋愛対象になどなる訳もない。相手に特殊性癖が無ければだが。
そんな儚い恋は、誰も通らないようなド田舎の道端で終わりを告げた。いや……もしかしてその時に、僕の精神にヒビが入ったのかもしれない。
友人と隠れんぼをした帰り·····夕焼けの中。私は普段通らない道を通った。誰もいない、日が当たらなければ直ぐに寒くなるような紫色に染まった道を。
私はそこで変わったものを目撃した。不自然に揺れている車だ。あれはワクワクしたものだ·····爆発するかも?もしかして変形するのか? などと子供ながらに考えたものだ。
しかしその車に近づいてみると、中に人が動いているという事に気がついた。私はませたガキだったので、小学生の時には大体の性的な知識を持っていた。小学生に電子辞書を持たせると危険だ。
正直、興奮した。
私はその場面を目の前で目にした事は無かったからだ。だが、私は気がついた。気が付いてしまった。その車に乗っているのは、腰を振っているのは、私の恋した年上の女性だった事に。
私は今も忘れない。車から笑いながら降りて話す彼女の姿を。
私は今も忘れない。心にヒビが入った、人生で初めての失恋を。
そんな経験をした私は、NTRというジャンルが好きだ。そして基本的に破滅思想を持っている。多分、この出来事が原因なのだろうなと今は考えている。
まだ、心の構築が出来ていなかったのだ。寝取られた訳では無いが、確かに何かを失った悪夢のような経験、それが私を形作ったのだろう。
さて、本題に入ろう。
世の中には、数々の性癖が存在する。
その中の一ジャンル『寝取り』については、生物としての生殖本能である為、難しい概念ではないだろう。
しかし、ここで考えるのは少々困った性癖についてである。
そう、『寝取られ』だ。
考えてみて欲しい。例えば泥棒に財布をスられた時、当たり前のように怒りが沸くはずだ。怒りもある意味興奮であり本能的な感情ではあるが、ここで興奮する人間はあまりいないと言えるだろう。いたらそれはそれでヤバい人だ。
さて、NTRとは、寝取られとは何か。
寝取られとは、文字通り寝て取られる。つまり、パートナーないし親密な関係にある人物が、自分以外との性交渉によって心変わりしてしまう事である。
そこには心理的NTR、肉体的NTR、マジカルち○ぽ、催眠、経済的恐喝、強姦、ビッチに不倫など、様々な概念が存在する。
当たり前だが、普通の人間は、変わっていくアナタを許さない。木綿のハンカチーフなどもってのほかである。つまり、心変わりした元パートナーとその相手に対し、心の底から怒りがフツフツと沸き上がるはずだ。財布どころの話ではない。ドロボー野郎には殺意すら抱くかもしれない。
そして一通り怒った後、とてつもない後悔と悲しみ、そして疑問がアナタを襲うだろう。
さて、この時点で若干興奮したアナタ、危険ですね。もうデンジャーゾーンだ。アナタは既にNTRのトップガンに位置していると言っても過言では無いが、その人生の先にあるのは、脱出したグースと同じ末路だろう。
話を戻すと、NTRを食らった場合、怒りと悲しみ、そして憎しみが発生するのが、通常の人間の心理という物だろう。
だがここで、喜びと興奮を感じるという、深淵の向こう側を覗いてしまった恐ろしい性癖の持ち主達が存在する。
そう、俗に言う『NTR属性』である。
一般的な人間からしてみれば、異常者である。というより多分、この性癖を持っている誰もがヤバい性癖を持っていると自覚しているであろう。
自覚していない人は心理どころか真理の扉を開きかけているかもしれないので、セラピーに行こう。
では一体なぜ、喪失感に対する興奮が起こり得るのかこの性癖を発動する条件とは何なのか。まずは有名な心理学者、フロイト先生が提唱した、防衛機制という概念を元に考えていく。
防衛機制とは、自らが受け入れ難い状況や自我が破滅するような場合に陥った際、我々人間の精神が自らを守る為に自我を環境に再適応し、自分という存在を維持しようとする防衛機構である。
簡単に言うと、精神が壊れる程の酷い状況に陥った際、人間は精神的健康を保つ為、その感情をほかの何かに変換するという事である。
イソップ童話に、酸っぱいブドウというお話がある。ブドウを食べたくなったキツネが何度もジャンプし、高い場所にあるブドウを取ろうとするが、届かずにこう言い放つのだ。
「どうせまだ青いし酸っぱくて食えねぇだろ!」
完全に捨て台詞ではあるが、このキツネはブドウを取ることのできなかった悔しさ、つまり精神的なダメージをブロックし、違う目標へと進んだのだ。
このキツネはまさに、防衛機制を働かせていると言える。キツネだってブドウが食べたいし、食べられるのならば食べていただろう。キツネくん木に登れないのん? というメタい話は考えてはいけない。解決策は人それぞれだ。
これは日常生活でもよく見られる事であり、例えば内定の取れなかった会社に、まぁ縁がなかったんだなぁと思ったり、振られた異性に対してアイツは家事が出来なかったから結婚してもダメだったな! などと思ったりする事だ。
これは欲しかったものを手に入れられ無かった場合の話である。つまり精神的なダメージはまだ軽度といえる。
では、深刻なダメージでの防衛機制はどのようにして起こるのか。
考えてみて欲しい。長い時間を共にし、心の底から相手を信頼し、依存し、そして未来を夢見た自身の半身に裏切られたら?
相手が死ぬならまだ良い、自身の中で愛は続くのだから。
だが、突然裏切られれば? 信じていた相手に裏切られ、自信を否定され、それどころか見下され、当たり前の日常を、信じていた未来を突然パートナーに奪われれば?
そう。そこには穴が空いてしまう。心にポッカリと、空虚な大穴が空いてしまうのだ。
人の精神は複雑であり、自分自身でもその底を観ることは叶わないだろう。
この虚無感を何で埋めるのか。いや、そもそも自身のアイデンティティをも否定され、今まで培ってきた自身という存在を維持する為の骨格すらも失った存在に、心という宇宙を保護するシールドを失った存在に、埋めるような質量など存在するのだろうか?
少なくとも、私はそれを知らない。
防衛機制には、いくつかの階層的分類が存在するが、寝取られ属性においてまさにそれが起きているのではないかと考えられる。
先程述べた酸っぱいブドウの話は、欲求に対して、理論で考えることにより納得するという防衛機制の合理化が該当する。
しかし、寝取られ属性の場合、破滅願望に近いと言わざるを得ない。何せわざわざ奪われに行っているのだから。有名な言葉を引用すれば、悔しいけどビクンビクンといった感じだ。悔しいけどシコれる、シコれてしまうのだ。
では何が起来ているのか、それは防衛機制の概念のひとつ、反動形成だと思われる。反動形成は、受け入れ難い衝動が抑圧され、意識レベルで正反対の事に置き換わるという概念だ。
誰だって初めは、寝取られたくて寝取られる訳では無いだろう。スワッピングのように、興味本位での不倫などは無知故の事故といって良い。
だが完全に心まで完堕ちするような場合、そしてそれを傍から見て楽しむ場合。反動形成により何が引き起こりうるのか、それは『寝取らせ』である。
寝取られ好きが、意図的にパートナーを他者に渡すという行動。
自身の精神を痛めつける寝取られは、ある意味究極のマゾヒズムと言えるかも知れないが、寝取らせは自らのパートナーに対するサディスティックな行動と言えるだろう。
では寝取らせプレイをする人間は、トラウマで人格が壊れてしまっているのか、はてまた相手をパートナーとして信頼、もしくはパートナーとしてすらも見ていないのか。
いや違う。それは取られている訳では無い。愛があってこその寝取られなのだ。
反動形成により取られたくないという感情が、取らせて満足するという感情に置き換わってしまっているのだ。自身のを守る為、自身を傷付けているという恐ろしい行動、それが寝取らせなのかもしれない。
性的関係で相手を奪われたのであれば、性的衝動で心を埋めようとするのか。あるいは、相手とパートナーを物理的、社会的に抹殺する為の復讐心で満たすのか。あるいはその全てか。その場合ここで発動しているのは、行動化という概念だろう。
むしろこれは本能に近く、外に放出する分精神には健康的なのかもしれない。
防衛機構本能というのは、言ってしまえば精神の限界である。強固な自我さえあれば、そもそも防御を働かせる理由もない。
もし、広い宇宙の中で、人間に似た生物がいたとすれば、しかし我々人間とは全く別の精神構造を持つ知的生命体がいるのなら、果たしてその生物は、寝取られに対して興奮を抱くのか、興味は尽きない。
いや、宇宙人である必要も無い。人間には、生まれつきの、そして、訓練を重ねて精神を鍛え抜いた人もいるだろう。
強固な自我を持った人間を徹底的に貶めた時、その存在は防衛機構を働かせ、寝取られという性癖を理解できるようになるのだろうか。
しかし文化によっては、防衛機制が全く働く必要がない場合も存在する。
それは、一夫多妻制、一妻多夫制の存在である。これは、寝取り、寝取られに該当するだろうが、それが当たり前の社会制度である。
人類社会全てが一夫多妻制の場合、NTRという概念を生み出したのだろうか。いや、私はそこにNTRの概念は存在しないと思うのだ。
何故ならば、防衛する必要が無いからだ。
結果的に、『寝取られ』が防衛機制によるものだと考えた場合、一見それは破滅願望に見えるかもしれないが、実際は自身の精神を守る為の行動だということが考えられる。だがそれは同時に、自分の心を守る為の機構が確実に我々の生活を蝕んでいくという負のサイクルを生み出すこととなるだろう。
負のサイクルに陥らないようにする為には、やはり定期的に通常の一般的な興奮を摂取する必要がある。
例えて言うなら
「う〜ん、純愛とかシコれねぇわ」
というのは、行き過ぎた防衛機制による興奮の賜物であり、最早危険信号だということだ。そこに依存し過ぎず、何かで癒す他ない。
更なる興奮を追い求める事は、今の人類の脳にとっては麻薬と同義であり、精神崩壊した後、白い壁に囲まれながらある人間味のない仙人、そして真の賢者になってしまうかもしれないのだ。
一つ確実に言えるのは、こんな性癖、知らない方が幸せだろうという事だ。
幸せな人間は、そのままのあなたでいて欲しい。理解できないままでいて欲しい。パートナー奪われないように、幸せに暮らして欲しい。
だが、心を壊した私はそんな貴方から寝取りたい。嫁を彼女を寝取りたい。そして寝取られたい。
やっぱり錯乱じゃないか!
やはり、何事も節度が大切なのだ。防衛機制によるものならば、まだ廃人になっていないだけマシというものであるが、破滅しない程度に用法用量を守って定期的に摂取すれば問題は少なくて済むだろう。
ようは程度の問題だ。一夫多妻制や一妻多夫制のように、気の持ちようを変えるという方法もある。出来たら苦労しないが。
以上の考えから、寝取られ好きならば、自身の生活を壊さない程度に留めておくこと、これが大切であり、ヤバいと思ったら誰かに相談、ないしカウンセリングを受ける事をオススメする。真に心の隙間を埋められるなら、NTR好きという概念が消失するかもしれないからだ。
結局の所、NTRで得るものは興奮だ。それ以外には無いし、はやり失うものが多いだろう。だが、それが良い。複雑な心の挙動を上手く利用し、興奮を得るというテクニック、使いすぎれば心を汚す、諸刃の剣。
もう戻る気も無い我々は、今日も、そしてこれからも、空虚で乾いたを心を守る為、自ら悲劇に飛び込むのだろう。真っ黒な墨汁で心を洗いながら。
これは、私の一個人的な意見であるので、そこら辺の変態が嘆いた独り言だと思ってください。
因みにこれ、以前に書いた、『NTR、何が良いのと聞かれたら』の第二弾です。
私の書いている小説のヒロインは寝取られないように頑張るよ?私の作ったキャラには幸せになって欲しいからね?