4.不安
簡単なホームルームを経て始業式を済ませれば、今日の学校は終わりだ。伊織には帰りにでも声をかけてみよう。
そんなことを考えながら体育館で校長の話を聞き流していると、もう一つの重要な問題に気が付いてしまい、うっかり声を上げるところだった。
……誘ったからって、伊織がついてきてくれるとは限らないんだよな。
クラスでは俺くらいしか話し相手がいないし、須納が伊織のことをよく思っていないのも、それとなく伝わっているような気がする。……まあ、伊織に対して苦手意識を持っているのは、別に須納に限った話ではないけれど……。
自分で言い出しておきながら、あれこれもやもやと考えつつも、帰りのホームルームを終えてすぐに教室から出ていってしまった伊織を、あわてて追いかける。
「伊織!」
俺の呼びかけに立ち止まってくれた伊織の隣に並びながら、そういえばこうして一緒に帰るのは初めてかもしれないな、と思った。大まかな家の方向は同じなのに、なんだか不思議だ。
靴を履き替えた伊織は校門のほうへ向かわずに、なぜか昇降口横にある通路へ進んでいく。何か用事でもあるのかと聞くと、静かに首を横に振るだけだった。
というか、この通路はどこへ繋がっているんだっけか。使った記憶がない。
疑問符を浮かべながら歩いていくと、通路の先に学園の敷地内にある送迎用ロータリーが見えてきた。
その様子で謎が解消されたのと同時に、今まで一緒に帰ったことがなかったのも、これが原因だったと思い起こす。これといってあまり意識したことはなかったが、伊織の家は金持ちだ。いくつもの事業を展開している宮原グループの後継者となる人物だから、小学生の時点ですでに送迎が行われていたのは覚えている。
この送迎用ロータリーも、伊織のような立場の人間が利用しやすいようにと、学園側が準備した設備だ。……俺には縁がなかったから、すっかり忘れていたけれど。
「……乗る?」
まるで新車のようにつやつやとしたボディの、立派な黒いリムジン。俺の家まで送ってくれる、という意味も含めているのだと思うが、どうしてもたじろいでしまう。とはいえ、まだ肝試しのことを話していないし、ここで立ち話をするわけにもいかないから、ひとまず乗っておいたほうがいいだろう。
「先に帰っていいって」
俺でもわかるほどの高級感ある内装に、座り心地も手触りもめちゃくちゃいいシートを相手に感嘆としていると、伊織がそんなことを口にした。
「……ああ」
都織ちゃん……いや、もう今は都織さんと呼ぶべきなのか。それも馴れ馴れしいような気がしてくる。……宮原さん?
まあともかく、宮原都織は伊織と双子で、同じこの学園に通っている幼馴染だ。しかし彼女とは、大きくなるにつれて自然と疎遠になってしまったから、校内で見かけることはあっても話すことはなくなっていた。
「先に、って……宮原さん……、は帰りどうするんだ?」
「……俺も『宮原』。紛らわしい」
「あ、ごめん。じゃあ、えーっと……都織、さん?」
本人がいないのに呼び方を吟味するのも、なんだか変な話だ。どれが正解なのか分からないし。聞かれたって、伊織も困るだろう。
「もう一台、来てる」
車は俺たち二人を乗せて、滑らかに走り出していた。
都織が今日一緒に帰らないことは事前に伝えられていたから、送迎車は二台だったらしい。それに、もともと家族には一人一台ついているようなものなんだとか。伊織のところは四人兄弟だからな。両親はさておき、登下校のことを考えると、たしかにそれくらい必要になってしまう。
「……それで、なにか話があるんだよね?」
よく分かったな、と少し驚きつつ、肝試しについて参加の可否を聞いてみた。やはり、俺としては伊織も一緒のほうが嬉しいけれど、難しいだろう。
「……いいよ」
思案するようにして少し目を伏せたのちに得られた回答は、予想外のものだった。人間関係のことももちろんあるが、ルールやマナーをきっちりと守る真面目な伊織が、こんな馬鹿げたことに首を突っ込むなんて、心のどこかではありえないと思っていたからだ。
「変なことに巻き込んでごめん。ありがとう」
俺の言葉に対して、とくに返答と呼べる反応はなかったが、なんとなく「気にしないで」と言われているような気分だった。
「一応確認だけどさ、内緒で来いよ?」
伊織の家が厳しいのは知っている。深夜に抜け出せるかどうかはさておき、正直に行き先や時間を告げてしまったら絶対に止められるだろう。
「大丈夫」
「ならいいんだけどさ」
ほとんど即答に近い返しに安堵したのもつかの間で、情報を足された次の発言に耳を疑った。
「……言っても、大丈夫」
「いやいや、だめだろ」
大人が介入しちゃうだろう、どう考えても。しかし伊織は「むしろ言ったほうがいい……」とか「平気」とか言うばかりで、のれんに腕押し状態だった。うーん分からん。まあ頓挫するならするで、それも思い出かな、と考え至り、押し問答は俺が折れる形で終了した。
そんなことをしている間に、俺の家へ到着していたらしい。礼を言い別れてから、なぜだか妙に楽しい気持ちになっている自分に気が付いた。普段ほとんど言葉を交わすことがなくても、幼馴染という存在は、やはり居心地がいいのかもしれない。
伊織にとって、今の距離感はどう感じているのだろう。学校で孤立している伊織に対して、たまにしか声をかけない俺。もっと話しかけてもいいのだろうか。あまり騒がしくするのも伊織に悪いかな、と思って接することが少なかったのだが、もしかしたら「伊織に合わせている」のではなく、「俺がそうしたい」だけなのではないかと、漠然とした感情が沸き上がった。
……都織さんは、今どうしているんだろう。
というか、俺は……どうして、よく遊ぶほど親しいはずだった二人と、一線引いたような関係になっているんだろう。
心当たりがないのに、突然浮かび上がった疑問。既視感とも違う、気持ちの悪い感覚に侵食されながらも、忘れないうちに、とメッセージアプリを立ち上げる。
伊織が参加することを二人に伝えると、案の定驚いていた。まあそうだよな。聞いた俺自身も驚いたし。
一体、当日はどうなるのだろう。しばらくの間、言い知れぬ不安と期待が胸の内で渦巻き続け、どうにも落ち着かなかった。