エピローグ .Lily
――目を覚ます。
ぱちり、ぱちりと瞬きをして、一体ここが何処なのか、考えた。身体を起こす。陽光が柔らかく差す部屋。微睡みの残滓がまだ身体から抜けきらず、また寝転がりたい気持ちを抑えつけるようにして、あくびを噛み殺した。
ずっと、眠っていた気がする。
ベッドに腰掛けたまま、視線を巡らせる。
壁、天井、床、時計、机、椅子。目に映るもののすべてが新鮮に見えた。窓を見つけて、外を覗く。空は薄い青色を見せていて、登りたての太陽が、視界の端にその真っ白な姿を晒していた。向こうに見える海がこっそりと揺れている。――お城だ。
窓から離れて、扉の方へ歩いていく途中で、鏡を見つけた。覗き込んで、最後に見た自分の姿と大きくかけ離れていることに気が付いても、そんなに驚かなかった。
長いこと眠っていた気がする、けれど、身体が、そうでもないことを知っている。リリーは――自分の中に空白があることになんとなく気が付いていた。それを埋めるピースが足りていないのだということもなんとなく、分かっていた。
前髪の、左の、黒い部分をそっと撫でつける。
扉へ向かった。取手を掴んで、ぐっと捻った。扉をそおっと開ける。
さっぱりとした風がリリーを出迎えて、誰も歩いていない廊下が静寂に包まれて黙り込んでいる。白い風景。窓から光の柱が床に落ちていた。
ここ、寮の棟だ。
もう、シャーリィの部屋で、寝てないんだ。
廊下へ出て、扉を背中で閉める。その音が思ったより大きく響いたので、思わず息を吐く。そして吸って、今度はゆっくりと吐いた。
両手に伸びる廊下。どちらに行こうかと迷ったけれど、よく知っているところに行きたかった。自分の格好がほとんど下着に近いことも忘れて、歩き出す。
柔らかい絨毯に素足が沈む。埃の一つも落ちていない廊下は身体のことも忘れるくらいに暖かく、いまが何月なのかを考えようとした。理屈っぽさも、抜けてはいない。自分が何者なのかよく分かる。
そのまま歩き続けていたら、向こう側の角から、人が一人出てきた。金髪を短く雑に切りそろえたその女の人は、深刻そうに眉を顰めて、窓の外を見ながらこちらに歩いてくる。
リリーに気づく様子もなさそうだったので、ぶつからないよう、立ち止まって、少しよけた。彼女が横を通り過ぎるその直前に、リリーと目が合って、立ち止まった。しばらく見つめ合ったあと、やがてその手がすっと伸びてくる。リリーは動揺を悟られないように彼女の顔を見つめた。
「……起きたの? リリー」
子供をあやすような声で言って、リリーを優しく抱き寄せた。
「あの、だれ――」
「いまにわかるから。……教えるから……っ」
リリーが言い切る前に苦しそうな声で言って、その抱擁が強くなるのを、胸と背中で感じた。
心地よく、また微睡みに落ちそうな抱擁だった。
「いまは、このまま、こうさせて」
声の悲痛さが語っていた。
多分だけれど、わたしの失ってしまったものはものすごく大きいのだろう。
体温がそれを教えてくれる。震える声と、それを受け入れようとするわたしの身体と、揺れる脳内のちぐはぐな状態が、教えてくれている。
ふっと力を抜くと、さらに強い力がリリーを包んだ。
空虚さの――心にぽっかりと空いた穴の、存在が分かる。
それをどう埋めるのか、そういうことを、わたしはたぶん、考えなければならないのだろう。
鳥が羽ばたく音が外から漏れ聞こえている。
風が、翼を運んで、花を散らして、優しいにおいを、わたしたちに届けて、前髪を揺らして、そして、空にのぼっていって、消えていく。
春の朝も、冬の夜も、その現象だけは変わらない。どうしたって変えられない。暖炉はすすで汚れていく。花は咲いたのに枯れていく。
溶けない雪を探している。
天上には黒い百合も咲くのに。




