第七十一話 .Lily
「そして今日が来た」
リーラの話が区切りを付ける。リリーは頭の中で話の辻褄が合うのを感じていた。リリーが猫事件の捜査に入ることをターラが怒鳴ってまで拒否したこと、リリーたちは思い出せそうな記憶を失い、同様に突然現れたヘイリーも記憶を失っていたこと。密室から消えた日記帳も。知らないところで、事件はすでに動き出していたのだ。母の不在にさえ気が付ければ、おそらくは辿り着いていた結論でもあった。
そして、予想だにしなかった自分の生まれについても知った。
「エール国内が騒々しくなったのを感じて、その機に乗じて教会を抜け出した。マクナイル兵の姿が見えて、事情を聞いた。シャーリィが攫われたのを知ったのはその時。でもすでにほとんど鎮圧されたエールからシャーリィの姿が現れないのはおかしい。だからミカフィエルに飛んだ。そしたら銃で狙われたから、なにかがあることが分かった。そこで――」
アリスが言葉を拾う。
「ほとんどの兵力は海からエールに向けていたけど、ミカフィエル側からも挟撃するために私の部隊がいた。そこでリーラさんと会った。……すぐには思い出せなかったけど、思い出して、リリーが姫の後を追ったことも話した」
それで、母とアリスが一緒に、ここへ来たのだ。
「わたしは結局、こういう形であなたを巻き込んでしまった。本当に……だめな母親ね」
記憶が結びつくことで、それを知っていた自分が戻ってきたという感じがする。しかし、それを知らなかった自分もいる。頭の中が混乱しているのが分かった。
声を震わせて謝る母の姿を見て、リリーはどんな風に声をかけたらいいのか分からなかった。母が、そんなことを考えていたなんて。わたしのことを、恐れていたなんて。思いもしなかった。人の気持ちの機微がどれだけ気になるといっても、母親のことまでも疑おうとはしなかった。疑ったとて、母の自分を思う気持ちが嘘だったわけではないのだから気付きはしなかった。
自分だったら――と思う。もし、同じ立場だったら、やっぱり、逃げたくなるのだろうか。
でも、それ以上に、わたしはわたしだ。
「信じてもらえなかったのは、寂しいよ、おかあさん」
母の口から喘ぎが漏れる。涙がリリーの頬に落ちて湿った。
元凶はある。たくさんの原因はあっただろう。けれど、この場にいる誰にも責められるいわれはない。身体は気持ちに嘘をついたままでは動かせないのかもしれない。しかしそれ以上に、気持ちを勝手に動かすような、なにか大きなことが世の中にはたくさんある。それだけは確かだった。
「わたしは、人間の子なの?」
リリーの問いかけに、リーラはゆっくりと頷いた。
「……ええ、そう」
「黒髪が生えているの、そういうことだったんだね。それが知れただけでも、なんか安心した」リリーは一度口を閉じる。なんと言えばこの人をこれ以上悲しませずに、言いたいことが言えるのだろう。「それで……、人間の血を引いているから、人を殺そうと思うことができるのかな」
母の表情が暗く歪む。そして首を横に振った。悲痛の重みを帯びた否定だった。
「ただの好奇心から下の世界に下って、分かったことがある。人間は悪魔と呼ばれるほど醜い生き物じゃない。もちろん、聖域で聞くよりたくさんの酷いことがあった。そういう情報は、下の世界ではすぐに伝わってくるようになっているの。わたしはね、周りの天使が言うように、人間がほんとに悪魔と呼ばれるほどの存在なのか気になって、行った。でも結局は、そこにいる人を愛して帰ってきたわ。リリー、これがどういうことか分かる?」
頷くと、母は袖で涙を拭いて微笑んだ。
「でも、だったらわたしは」
「血とか、そういうことで人を殺せるのなら、リリー、あなたはそんなに優しい子に育ってはいない」母の語気は強かった。「アリスから聞いたわ。今回は、リリーの目の前でたくさんの悲しいことが起こった。色んな人が困っているのを見て、大きな悪意も感じた。臆病なあなたがこんなに大胆なことをしなければならなかったことを、わたしはリリーだけのせいだなんて思わない」
「でも、それは言い訳にはならない。人を殺していい理由には、ならない」
母は何度も涙を流すのをやめては、リリーの言葉を聞いて何度もまた流した。自分の声がそれでも強く言い放つのを、自分で遠巻きに見ている感覚があった。「許してもらう、つもりもない」
「だから、帰りたくないって言うんだようね」
「うん」
「そう言うだろうなって思ってたの。誰よりも優しくて頭がいいあなたなら。――でも、今回のことは言い訳になるし、理由になるし、許す。それはリリー、あなた以外の人が決める」
母がリリーの頭に触れる。自分など愛撫してほしくなくてその手から逃れようとするが、力が入らなかった。
「リリー、あなたに初めて物を教えることができて、嬉しかった。下の世界のことを教えられて、嬉しかった」
そして母のその手が、リリーの額に当てられる。
「あなたが帰ることを嫌がる理由はよく分かる。人を殺したから。そうでしょ?」リリーが頷くと、母は一度大きく息を吸った。そして後ろ髪を引かれる思いを断ち切るように、強かに、それでいながら穏やかな声音で言った。
「――じゃあ、置いていきましょう。人を殺したリリーは、ここに」
喉の奥が鳴る。リリーにはその意味がすぐに分かって、焦って身を捩った。動け、動け――! いま、動かなければ、わたしは……!
「のうのうと生きていきたくない! 罪を忘れて生きていくなんて!」
叫びは広い部屋に響き渡って、その意味を汲んだアリスが動揺して声を上げる。
「リーラさん、それ……!」
リーラが優しく微笑む。
「忘れちゃおう」
もしそんなことをされたら――。
いや、許されていいわけがない!
人を殺したことも忘れて、自分は平和に生きていくなんて。
「わたしの能力にも欠点がある。なにかをきっかけに記憶が戻ってしまうことがあるの。リリーが今回、わたしのことを思い出したみたいに、全部を知ったり、あまりにも矛盾が大きかったりしたら、記憶は戻ってしまう。――だから、今度は、きっかけすら消す」
母の声は落ち着いていて、陽光の落ちるこの部屋にゆったりと聞こえていた。リリーの意識は朦朧としていて、身体を動かすことももはやままならないままだった。疲れとか、痛みとか、混乱とか、いろんなことが同時に身体を襲っていた。
そして突然、ふっと深く気を失うかのように、全身の緊張が抜けた。
「ごめんね、たぶん、赤子のようにはならないから」
きっかけすら――その意味が分かったときには、リリーはもう眠りに落ちていた。
自分は――全くの記憶を消されてしまうんだ。
次第に視界が、遠くから近づいてきた光に飲み込まれる。光は目も開けられないほど眩しく、瞑ってもなお隙間からこぼれ落ちてくるようだった。やがてその煌めきは分散していき、空中できらきらと妖精が踊るように舞う。その光景がなにを象徴するのか分からず、リリーは床にへたり込んだ。
そして気がつく。
わたしの記憶だ。
シャーリィと勉強している幼い頃、ターラやお爺になにかを教わっていたり、ヘレナに頭を撫でられたり、記憶の中の自分はどんどんと成長していって、母と再会し、近衛兵になる。アリスと出会い、その中で笑顔を増やしていく自分は、絶望や殺意などとは程遠く見えた。
――このままの、このままの生涯だったら。
どんなによかっただろう。
真っ白な空間に置いてきぼりにされているのがひどく、むごいほど寂しくて、涙がぼろぼろと零れ落ちるのを止められなかった。しゃくり上げる声がしんと響き渡り、雪の降る、冬の夜のような、そんな静寂の中に自分がいるのだということが耐えられなかった。知っている名前を、大事な名前を叫ぶ。答える人は誰もおらず、ただ虚しさだけが残った。
胸が苦しい。
記憶の中の映像は、それを見せつけるように目の前に出てきたあと、飛沫のように弾けて消えていく。
みんなはどこなの。
わたしはどこなの。
ここにはなんのにおいもなくて、音もなかった。
雪の中の青、海の中の赤、大切な人の大切な何。
知っていることを思い出そうとして、あがいた。
銀の世界がいつの間にか黒く染まっていることに気が付いて、床に両手を付いた。なにかにすがろうとしてもなにも掴めずに震える両手に、語りかける。もはや答えるものなどなにもないのだから、自分の覚えている感覚だけが頼りだった。
――わたしの思い出って、こんなに少なかったかな。




