.Lila 12
なかば落ちるようにして、バルコニーから離れた。
夏に窓を閉め切るということは少なく、二階以上に住んでいるとその必要性も低い。アリスもシャーリィも、特に問題なく額に触れ、わたしに関する記憶を消すことができた。リリーは交友関係の広い子ではないし、リリーとよく関わりなおかつわたしのことを知っている人というのもアリス、シャーリィくらいのものだった。
最後にいつもの部屋に帰ってくると、急に切なさが胸を襲った。リリーの静かな寝息さえ大きく聞こえるような静けさの中で、わたしはしばらく呆然と扉を背中にして立っていた。
台所、椅子、机、ベッド、窓、カーテン、布団、すべてが藍に塗り潰されている。
自分がいたずらに吐く息の冷たさを感じていた。
自分の行いの軽薄さも脆弱さも知っていた。
寝ているリリーに近づいていく。
起こしてはいけないのに、頭を撫でる手が止まらなかった。どんな葛藤があって、どんなに逃げたくても、この子を愛していることは事実だった。愛しているからこそだった。人はおそらく、気持ちに嘘をついたまま身体を動かすことはできない。周りから後ろ指を差されるような気持ちでさえ自分にとっては欺瞞にはならない。わたしにとっては全部本当だった。リリーを愛していることも、それ故に恐れていることも。だからこうするし、しなければならないのだ。
額にそっとキスをする。唇にリリーの髪の毛が触れて、こそばゆい。
リリーから離れると、クローゼットの奥から日記帳を持ち出して、部屋を出て、鍵を閉めた。
廊下に出たあと、魔が差して日記帳を開いた。後ろからめくっていくと、白い頁が続いたあと、リリーの四角い文字が目に入る。そう、目に入って、わたしはずるずると崩れ落ちたのだった。
ミカフィエルに戻ると、さっきの場所に老人はいなかった。けれど見覚えのある猫の死体だけはそこにあり、確かに何かがあったことを物語っていた。
物音一つしない夜に静まり返る街を歩いて回る。人の姿は全く無く、人が住んでいる気配さえ無かった。歩いていると、ふと暗闇の中に看板らしき影を見つけた。目を凝らしてそこに書かれた文字を読む。
『観光地、この先』
……旅行者はここを通って行ったのだろうか。看板の指す方向へと向かう。トンネルが見えてきて、看板の指しているものがどこなのかに察しがいく。この先はエールではないか。ほいほいとこのトンネルを抜けていけば何があるかしれたものではない。空から行くことに決めたあと、トンネル周辺の様子だけ見ようと歩みを進めると、ふと自分の足が止まった。
自分で止まったのではなかった。首元を掴まれたのだ。慌てて翼を振るが、身体が浮遊しきる前にそれ以上の力で地面に叩きつけられ、抑えつけられた。
「何者だ? ミカフィエルに国民はもう残っていないはずだが。それも翼持ちとはな」
男の声だった。どこかで聞き覚えのある声だったが、全く思い出せなかった。
「な……なぜ国民が残っていないのですか」
顔の見えない男に、内心怯懦しながら問う。
「まずはこちらの質問に答えろ」
強い声で男が言うと、視界の端から灯りが近づいてきた。
「助け――」
「どうしたの?」
ランプを持った女だった。助けを乞おうとしたが、すぐにそれが間違いだと知る。二人は仲間だ。そして、その灯りに照らされた顔を見て、息を呑んだ。
国衛軍の総長と副総長だ。しかし、顔を理解したのはわたしだけではなかった。
アーロンはわたしの顔を見るなり、双眸を見開く。
「お前……」
胸ぐらを掴まれ、強引に立ち上がらされる。抵抗しようとしてもアーロンは力強く、二人には敵うはずもなかった。
本当なら国衛軍の姿があれば安堵しただろう。だが、この場所に国衛軍がいるはずはないのだ。ターラは国衛軍をミカフィエルに送れないと言っていた。それに、この場所に人がいないことについて、事情を知っている風だった。
「……知ってるの?」
タグラスが問う。
「リーラ・エウルだ。堕天のな。マクナイル女王の顔見知りだ。計画を急がなければならなくなった。予定を早めるぞ」
目の前にわたしがいることが、関係ないかのように話が進められていく。それはわたしがもはやターラに密告することなどできないということを意味しているように。
「抵抗したら撃つ。言う通りにまっすぐ歩け」
ぐっと腰に銃を押し付けられ、言う通りにするしかなかった。タグラスのランプの灯りだけが揺らめく暗い気味の悪いトンネルの中で、わたしは肩を震わせながら、どこに向かうのかも分からないまま歩みを進めた。
危険だと言われた下の世界で安全に過ごせたことが、わたしの安全を過信させていたのかもしれなかった。翼や、記憶を消す力があれば、どうとでもなるのだと思っていた。だが、無力だった。
リリーのためを思ってここに来た。だが、わたしのせいで計画は早められる。
連れて行かれた先はエール教国で、大きな教会の中に詰め込まれるようにして閉じ込められた。そこにはわたしだけではなく、大勢の人がいた。老若男女問わず、赤子も、泣き喚く人も、絶望に満ちた顔で俯く人も。エールにとって必要のない人たちであることは明らかだった。
人々がミカフィエル国民であり、攫われてきたのだということは、捕らわれている人から聞いたことだ。内部には兵士の影はなかったが、出ようとした者がすぐに捕まり二度と帰ってこなくなって以来、抜け出そうとする者はいなくなったらしかった。時折ぞんざいに食糧が運ばれてきて、内部の人たちで優先順位を付け分け合った。
たまに仰々しい格好をした聖職者がやってきては、教書の暗唱を要求する。必死になってそれを覚えればいい暮らしが待っていると言われ、それを信じて出ていった人もいたが、ほとんどの人は本を開こうともしなかった。ただ瞳にのみ熱を帯びさせ、聖職者や配給に来る兵士を睨みつけていた。
わたしはリリーたちのことが心配で、食事も喉を通らず、眠りにつくこともままならなかった。なんとかして抜け出せないかと考えたこともあったが、教会の中の人々のことも放っておけなくなった。わたしの不在に気づいたエール教徒が、みなに何をするとも分からない。
そうして何日も過ごしていた。




