第八話 .Lily
「事件は深夜から早朝にかけて起こったものです。発見は朝早く巡回をしていた近衛兵と準国事隊の男性によったもので、発見されたそれは――」リリーはその光景を思い出し、少しだけ言い淀む。「……猫の死体でした。その死体というのが、わたしも確認しましたが……頭部だけが切り落とされたもので」
「ああ……リリー見ちゃったの? 無理して思い出さなくてもいいのよ」
ヘレナが心配して声をかけてくれ、ターラもまたこちらのことをヘレナと同様憂うような顔で見ていた。だが、あれを掴んで袋に入れるくらいのことはしているのだ。リリーは二人を安心させるために微笑んで首を横に振った。
「お気づきかとは思いますが、この頭部がないというのは……」
「――七年前と同じね」
ターラの視線が揺れ動く。前回の猫惨殺事件のときも王政府は決議に追われた。国民の混乱も然り、城のまとまりもまた宗教間の対立と疑心暗鬼で脆弱なものになってしまったのだ。きっと様々なことを心配しているのだろう。
「……はい。まだ関連しているかどうかは分かっていませんが、無関係ではないだろうというのが、わたしの――あくまでわたしの考えです。準隊とも情報交換をしようという方向でまとまっていますし、解決は遅かれ早かれするかと。あと、騒動になりかねないので、一旦はこの事件を公表しないものとして保留してあります。問題ないですか?」
ターラが頷く。
「うん、問題ない。いい判断だわ」
ターラは一度言葉を切る。少し、ぎこちない間が空いた。
「……リリー、ほんとに落ち着いてるわね。事件となると、こう、鉄かなにかみたいに心が強くなるから……」
ターラはそう言ってリリーを見る。その表情がどことなく暗いのを、リリーは見逃さなかった。目が合うと、ひどく動揺したように「大会は延期になっちゃうわね」と言う。その言葉がどこか誤魔化す様子だったことに、リリーは首を傾げた。
「ああ、いえ。仕様のないことですから。むしろ日が伸びれば伸びるほど訓練できますし」
ぐっと力こぶを作る素振りをして、リリーは落ち込んでいるように見えるターラを安心させようとそう言う。が、それでもなおターラの視線は落ち着かなかった。やはり申し訳無さが拭えないのか、それとも事件のことが気になって仕方がないのか。リリーと目が合っても、一瞬で逸らされた。
ヘレナが紅茶を一口飲み込んで、口を開く。
「これ以上何事もなければいいけれど……。リリーもまた調査に参加するのよね」
「はい、わたしも、できることはやるつもりです」
ヘレナにそう言った途端、リリーの目の前に何かが勢いよく近づいてきてリリーは思わず顔をのけぞらせた。一瞬信じられないほど大きな虫かと思ってしまったが、冷静になって見ると、それはターラの手のひらだった。
「ちょっと待って」ターラがその手でリリーの口を抑える。俯いていて表情は見えず、リリーの口を抑えたその手を出していることだけが精一杯であるかのように黙り込んでしまった。王室にいる皆がターラの行動に静まり返る。当のリリーはよっぽどで、よく知った仲であるとはいえ、女王の手のひらに息を吹きかけてもいいものか分からず呼吸もできなかった。
ターラがようやく口を開いたのは、十秒ほど経ってからだった。
「リリー、リリーは……この事件から外れてくれないかしら」
眉を歪めてターラのことをまじまじと見つめる。
「……え、どうしてです?」
普通に話していると思っていたら、唐突なこの空気はなんだろうか。ヘレナもサラも、ターラのことを気遣わしげな表情で見ている。きっと状況を理解できていないのは自分だけではない。そうリリーは思った。
「とにかく、だめなのよ」
「ターラさん?」
リリーは目の前のターラの手をどける。
「ターラ、どうしたのよ。そんな藪から棒に。それじゃあリリーも納得できないじゃない。この子は国の、私たちのことを考えて働いてくれているのに」
ヘレナが気がかりな視線をターラに投げかける。ターラは一瞬、ヘレナの方を憂いを帯びた瞳で見た。それを見て、どこからともなく不安な気持ちがこみ上げてくる。そして同時に、散り散りな困惑もまたリリーを襲っていた。急なことで状況の整理がつかない。ターラは何をそんなに嫌がるのだろう。今まで何度も事件に関わってきた。けれど、ターラにこんなことを言われるのは初めてだった。リリーが捜査をしてはいけないということに、何か理由があるのなら聞きたい。
「ターラさん――」
「だめなものは――だめなものは、だめなんだって!」
少し棘を帯びたターラの声音に、リリーの喉がつっかえた。見たこともないような彼女の様子にヘレナはおどおどとし、あのサラでさえ少し動揺しているように見える。リリーは口を開きかけたまま動けなくなってしまう。胸の奥がちりっと痛んだ。その痛みにリリーは眉を顰めて、ターラの目をじっと見つめる。そんなリリーの様子を見てか、ターラは目を覚ましたかのように狼狽した。
「あ、ごめんなさい――急に大声を出して……リリー、えっと違うの。その――」
けれど、それでも理由だけは述べなかった。ターラからこんな風に怒鳴られたことは、今までなく、どうしていいのかリリーにも分からない。母親のように、公務もある中でいつもシャーリィやリリーに構ってくれていた。もう十数年もターラと一緒にいる。けれどこれは初めてのことだった。しかし、ただ悲しく思っているだけではなかった。こうも頭ごなしに言われると、どうしても湧いて出てきてしまう反発心がリリーにもある。
リリーは席を立って、ターラを見下ろした。
「わたし、ちゃんと言ってくれるまでやめません。失礼します」
ヘレナとサラに頭を下げ、足早に王室を出る。扉を見もせずに後ろ手で閉めて、立ち止まりもせずに歩きだす。そんなつもりはなかったが、きっと足音が大きくなってしまっていたかもしれない。感情的になることがいい結果に導かれることはないとそう信じていながら。普段は気をつけているのに、あの時ターラに突き放されたように感じて、孤独を感じてしまった。そして抑えきれなくなって、王室をあんな形で出てきてしまった。
別に、猫事件にこれといった執着があるわけでも、固執する理由があるわけでもなんでもない。これほど大きな事件となれば、国衛軍や準国事隊の仕事だ。だから近衛兵は大人しく城の警備でもしていればいいのかもしれない。もちろん犯人が許せないというような、正義感みたいな気持ちがあるのは事実だ。いいじゃないか、調べるくらい。それで力になれるのなら、ただの近衛兵もまだ見捨てたものではないではないか。どうせシャーリィの横にはいられないのだ。
しかし、と思う。なぜターラはあそこまで嫌がったのだろう、と考える。
「危険だから」とか「また死体を見ることになるかもしれない」とか、言い訳でもなんでも付ければリリーの心境も違ったかもしれない。多分「それでもいい」と言っていただろうけれど――もしかしたらそれが嫌だったのかもしれないが――普段の冷静なターラならもっと考えられたはずだ。それもできないまま、なぜ頭ごなしにリリーを制したのか、リリーは図書室に着くまで考え続けた。