第七十話 .Lily
「だ、れ……?」
目を開いて、ぼやける視界で、声の主を探す。ふと横を見た時に、影があって、そこに目を留めた。その人はリリーの横で座り、リリーの頭を撫でた。長い銀髪が床に垂れて、切なげな表情を浮かべていた。
この人は、誰なのだろう。知っている人ではなかった。しかし、知っているような面影を見た。違う、知っているんじゃない。見覚えがあるんだ。それに気が付いて、リリーはおぼろげな感覚を振り払った。この人は――。
――自分に、似ている。
それを見て、確信を抱いた。
そうだ。やはりそうだった。
わたしは、――母のことを忘れていたのだ。
失った記憶の整合性を推理して、辿り着いた仮説のうちの一つだった。
「おかあさん?」
リリーがそう呼ぶのを聞いて、彼女はリリーを撫でていた手を止めて、驚いたように口元に手をやって、瞳を濡らした。でも、それが分かってもなお、リリーは、彼女の名前も、彼女とのことも思い出せていなかった。
リリーが記憶を失っていることに気が付いたのは、アリスと食堂で夕食を共にしている時だった。違和感は明白で、それでありながら限定的な記憶喪失だった。――昨日までの夕食をどうしていたのか。思い当たるところはあった。リリーもアリスも料理ができないのなら、料理のできる人がそこにはいたはずであり、しかしそれでいてなおお節介でなければならない。金銭も受け取らず食事を振る舞ってもらうことがあるとしたらどんな時だろうか。そしてそれをしてくれるのは、どんな人だろうか。
決定的なことがあった。日記帳が消えていたのだ。鍵のかかる部屋から、誰も招き入れていない間に日記帳が消えていた。そして、リリーはその日記帳を日常的に、クローゼットの奥にしまい込んで隠していた。なにから隠していた。誰も招き入れることがない部屋で。
そう。誰も招き入れることがないのなら、同じ部屋で一緒に暮らしていた人がいたのではないか。実際、リリーの部屋は一人で使うには持て余す広さがあった。一緒に暮らすような人で、リリーと、その友人であるアリスに毎晩料理を出してくれていた。そういうことをしてくれる存在。
目の前に現れたこの女性を見て、確信を得た。母だ。
思考が完成した途端、リリーの頭に鋭い痛みが走った。その痛みに顔を歪ませたが、すぐにその感覚はゆったりとしたものになり、段々と脳内をかき混ぜられるような、それで乱れていた何かが、次第に形を作って組み合わさっていくような、そんな感覚に変わった。
そして、すべて思い出していることに気が付いた。母との日々が瞼の裏を駆け巡る。視界に映るこの女性こそが、母――リーラなのだ。母の記憶を失っていれば当然に思い出せない記憶も戻った。タグラスに、あんな質問をしなければならなかった理由も思い出した。
『わたしはどうやって、シャーリィの前に現れましたか』
母は泣き顔で、訥々と語り始めた。事の顛末を、最初から。彼女が翼を授かったときから。




