第六十九話 .Lily
後ろで扉が勢いよく開く音がした。銃を持った兵士が一斉に入ってきて、その銃口を即座に教皇の方へと向けた。中には知っている顔がちらほらある。シャーリィが横で保護され、気遣われながら兵士たちの後ろへと下げられる。集団はマクナイル王国兵だった。先頭に立っているのは、アリスだ。
「リリー、下がって」
アリスが言う。しかしリリーはその場から動かず、肩越しにアリスを振り返るだけだった。
「リリー、どいて!」
急かすアリスに、リリーは微笑んで首を横に振った。
リリーの見ていない方向で、大きな金属音が鳴った。甲高い音。女の悲鳴のような、耳を裂く。その場にいる全員が、リリーの向こう側を唖然と見ていた。声を上げるものもいた。一人の兵士がそっちへ駆け寄って、窓から身を乗り出し、下を見た。
「……自害しました」
窓硝子を割って、教皇が自殺する音だった。この高さではひとたまりもない。ましてや、死のうとして飛んだのなら足から着地するような、情けのないことはしないだろう。シャーリィのことを見て、それだけを後悔した。彼女に死を見せたくはなかった。
リリーはじっとアリスを見る。彼女は窓から目を話すと、リリーに向けて優しく微笑むふりをして、その瞳の奥に哀れみを浮かべながらゆっくりと口を開いた。
「……大変だったね」
声も小さく、いつもの調子のアリスではなかった。
「ごめん、みんなは他の場所の探索を。誰か、アナ・キャロラインがエールで保護されたか、報告を受けてきて」
兵士たちは指示に従い、去っていく。シャーリィは男の兵士の支えを払って、この場に残ると伝えた。兵士がアリスに視線を向けると、アリスはそれに頷く。
兵士が去り、場にはリリーとアリスとシャーリィが残った。
「ここでなにがあったか、分かった?」
「……さあ、私はいま来たばかりだから」
リリーが身体をアリスに向ける。アリスは苦しそうに目を閉じた。
「帰ろうか、リリー」
「いや、帰らないよ」
アリスに背を向けて、歩く。かつんと、硬質な足音が部屋に響き、先程まで教皇が座っていた大きな椅子に、リリーが腰掛けた。
「帰らない」
「リリー!」
アリスが前に出る。腿の横で拳を握りしめて、訴えかけるようにリリーに叫んだ。あんな別れ方をしたのに、迎えに来てくれたのだ。そしてきっと、なにもかも見ているのに。
「いま、事情を知らないエール国民には状況の説明をしてる。ミカフィエルの国民も、シャーリィも助かったし、おそらくはアナも無事だよ。でもこれで解決じゃない。私たちは国に帰って、国衛軍のこととか、色んなことを決めなきゃいけない。意味の分からないわがままを言っている場合じゃない。はやくこっちにおいで」
「ねえリリー、どうして帰ろうとしないの?」
シャーリィが状況を掴めず、震える声でリリーに問う。リリーはそんなシャーリィのことさえ愛しく、笑みを溢した。この子のことを考えることが、わたしにとってどれだけ大切なことなのだろう。
「わたしに、マクナイルに帰る資格がないからだよ。平和になるマクナイルに」
「あなたの守った平和よ! 私を助けてくれた。マクナイルを救ってくれた。奴らがお母様にどんな条件を提示したのか知ってる。リリーが解決してくれたのよ、いつものように、苦しみながら!」
「さっきの会話、聞いてた?」
シャーリィが眉を顰める。
「教皇とわたしの会話。それから、廊下の銃声」
アリスがリリーの名前を叫ぶ。それを首を振ることで制して、リリーは目を瞑って、背もたれに身を預けた。疲れた身体に、痛む骨に、なんと心地よいことだろう。窓から差し込む陽光が、割れた窓からそよぐ風が、リリーに安息をもたらした。
「あの老人とわたしは、本質的には変わらないんだよ。なにかを犠牲にして、自分の大事なものを守ろうと、そして強固なものにしようとした。わたしにとってシャーリィは……アリスも、ターラさんも、みんな――大切なもので、それを守るために、たくさんのものを犠牲にした」アリスを見る。「気持ちとか。エールは人や猫を犠牲にした。信仰さえ。わたしも同じだった。人を犠牲にした。罪のない市民にナイフを突きつけた。殺したし、立ち直れないほどに追い詰めたし、自殺に追い込むこともした。そうして守った平和が、わたしのおかげであってはいけない」
シャーリィが唇を震わせ、それを覆うように手を口元に持っていった。
「殺したってなに……? リリー、なにもしてないじゃない……!」
「そう、銃声。シャーリィ、考えてみてよ、銃声のあとわたしが扉を開けたのは、わたしが撃ったからじゃない?」
アリスが今度こそ声を強くした。
「嘘をつかないで! アーロンを殺したとでも言うつもり? 彼は生きたまま捕らえた、そんなふうに姫を騙してどうするつもり!」
「わたしのことを、知ってほしくて。……これはわがまま、死ぬまで続く欲張り。アーロンは死ななかった。たまたま銃弾が逸れたから。だから生きていた。でも、わたしはその前に人を殺してる。ここに来る前に」
声を震わせて、シャーリィが手で顔を覆った。涙を流す音が聞こえるほど切実な姿だった。それさえも可愛くて、リリーはただ悲しく微笑むしかなかった。謝罪の言葉などなにになるだろう。励ましの言葉など脆弱で、やはり彼女を愛することは間違いだったのだと、そう思った。こんなに優しい女の子を、自分が。
好きという言葉を伝えることも躊躇するくせに、そのくせ、別れだけは一人前に告げられるのだ。
「アリス、見た?」
アリスが眉根を寄せる。そしてリリーに、憐憫の眼差しを向けた。ちょうどさっき、リリーが教皇に向けたのと同じ構図なのがおかしかった。割れた窓から爽やかな風が吹いてきて、埃がきらめきながら舞った。リリーは頭が暖かいのを感じる。陽が差して、銀髪を輝かせていた。その煌めきは、黒髪さえも綺麗に見せた。
「見た?」
「いや、私は……」
「見てない?」
「…………」
アリスが黙り込むので、リリーは微笑んで息を吐いた。
「別に責めてるわけじゃないんだよ。ねえ、わたしの翼は真っ黒なの。この前髪みたいに。ずっと、なんでわたしだけに黒い髪が生えているんだろうって思ってた。それも、昨日と今日で分かった。……ううん、タグラスさんの時にも感じるものはあった。――わたしには殺意がある。人を殺したいと思うことができて、殺すことができる。さっきみたいに、死に追いやることだって、やろうと思えばできてしまう。産まれたときから、わたしは二人みたいな天使じゃなくて、悪魔だったんだ」
リリーが自嘲気味にそう言うと、しんと空間が静まり返るような気がした。アリスの冷たい眼がリリーを捉える。ぞっとする。
「――リリー、」今日会って以来の、アリスのもっとも冷静な声だった。「あんたは頭がいいから、なんでも結びつけて覚えてる。始まりと終わりが合ってさえいれば、それがあんたの推理だと。でも、残念だけど、間違えてることもある。とりわけ、冷静じゃないときはそう。翼をどうして授かったの? それで事が有利に運ぶと思ったから? 仮に戦闘が起きても、翼があれば大丈夫だと思った?」
硬質な足音が鳴る。アリスがゆっくりと近づいてきていた。リリーは彼女の凍るような瞳をじっと見て、彼女が近づいてくるのをぼーっと見ていた。アリスがリリーのすぐそこで立ち止まる。
「――でも、私には勝てない」
そして、座っているリリーを容赦なく殴りつけた。
「近衛兵大会、この前はできなかったけど、どうせだしここでやろうか」
リリーは頬を抑えて、アリスを見上げた。自分の目に、情けなく涙が浮かぶのが分かる。どうして――。
「どうしてそんなこと!」
シャーリィの叫ぶ声がした。
「やめなさい、アリス!」
リリーはゆっくりと椅子から立ち上がる。痛む頬を堪えながら、脇腹を堪えながら。
「わたしが勝てば、帰ってくれる?」
「私が勝ったら、連れて帰るけどね」
ぎしぎしと身体が鳴るのを感じる。思考さえふわふわとし始めた。この状態で、この人と殴り合うのに意味はない――意味はなくても、帰ってはいけないのだ、わたしは。
「なんなの二人とも、やめてってば!」
シャーリィの声さえも、ここに至っては遠くから聞こえるような気がした。
「じゃあ、帰ってもらう」
風が止む。リリーが拳を握りしめたのは、その時だ。アリスの死角になる位置で握りしめ、顎を目掛けて振り上げる。が、それはアリスが避けるまでもなく外れた。リリーのバランスががくんとずれ、追撃に用意していた拳も届かなかった。屈辱の再来だった。一年前、リリーは弱かったわけではないのだ。他の出場者は、リリーに手が出せなかった。でもアリスはそのリリーを優に凌いだ。
どれだけ本気でアリスの動きを見て、隙を見て攻撃を当てようとしても、アリスにはそもそも隙などというものがなかったし、本気の一撃も、アリスの軽微な動きだけで空を切った。
翼を出してどうこうなる問題にも思えず、殺意を向けられた天使が、アーロンのようにどうにかなってしまうということが分かっていても、腰の剣を抜くことはできなかった。アリスに向ける殺意を、リリーは知らない。
中段蹴りが受け止められる。誘い込まれた攻撃だった。軸にした足が軽く蹴られ、後ろに倒れる。受け身を取ろうとしたが間に合わず、背中が痛んでうめき声が漏れた。起き上がろうとする。しかし、腕が、足が、ほんの少しだけ動くだけだった。もう体力の限界だった。
視界がぼんやりとする。目を開けることさえままならない。
「帰る前に、教えなきゃならないことがある」
アリスが言うと、その横から、シャーリィのものではない知らない声が聞こえた。絞り出されるように出された震える声を、誰のものなのかリリーは考えた。
「……ありがとう、アリス。そして、ごめんね、リリー。ぜんぶ、わたしのせいなの」




