第六十七話 .Lily
リリーが容赦なく、アーロンの顔面に拳を振り下ろした音だ。アーロンの悲痛を叫ぶ声が廊下に響き、叫び声は階段を抜け落ちていった。リリーは自分の拳に付いた血を払うと、アーロンの髪の毛を鷲掴みにし、顔を近付ける。
「あなたを殺したくて殺したくて仕方がない」
精一杯憎悪を抑え付けてもなお、低い声が滲むように自分の耳に入ってくる。自分でも聞いたことのないような、暗い音だった。アーロンが歪んだ顔でリリーのことをまじまじと見つめる。その顔にはもはや清廉さなどなく、ただ恐怖だけが浮かんでいた。
「……悪魔め」
「猫を殺し、国を裏切り、慕ってくれる人すら見捨て、この国でさえ兵士を騙しているあなたが、わたしを悪魔と呼ぶのですか」
アーロンが黙り込む。
「あなたが憎くて憎くてたまりませんよ」リリーの双眸は彼の顔を射るように見て逸らさない。「特に、わたしの愛しいシャーリィを人質にしたことは許せません。……許しませんよ、ねえ。聞いていますか。どのような償いをしても、わたしがあなたを地獄に送ります。あなたのせいで無念に駆られている人々に、あなたのひどい姿を見せてやりたい。とりわけ、わたしがそれを見て笑いたい。言っている意味が分かりますか。殺してやると、言っているんです」
天使とはなんだったか。殺意を持たなかったのでは。
自分の口から出てくる言葉を頭の中で羅列するたび、恐ろしい想像が脳内を支配する。それで、リリーはほとんど確信していた。あの大男を殺したのは事故などではない。
自分が殺したくて殺したのだ。
目の前にいるアーロンに対してもそう。発した言葉もすべて本心だった。
自分の上に、自分を客観視するなにかがあるのを感じる。そうか、黒い翼と共に与えられたのは、殺意ではないか。
リリーは息を吐き出すように笑い、アーロンの腰に目を向けず手を伸ばした。しばらく探ると、ひんやりと硬いものが手に触れた。リリーはそれを抜き取って、アーロンの額に突きつける。
アーロンはそれをより目で見て、血の気を失くした。人はここまで蒼白できるのか。死んでいるのではないかと言えるくらいに、正気が失われている。
「どうかしている! そんなことを言う天使も、そんなことをする天使も、いるはずがない! やめろ、やめろやめろやめろやめろ…………」
彼は歯をかちかちと鳴らすほどに震えながら、首を横に振り続けた。
リリーの手に握られた、銃を、怯えきった目で見ながら。
そういえば、この銃は逐一装填する必要があったなと、リリーはアーロンの腰辺りをもう一度漁り、弾薬を取り出した。
銃に弾を込めながら、本を読みながら会話をするような落ち着いた声で、リリーは淡々とアーロンに語りかける。
「女神が殺意を奪い、天使には殺意がなくなった。だから我々は至上の存在なのだと言いながら、聖域の民は武器を作るのをやめませんでした。剣だけでなく、銃まで。下界の戦争から救われた人々は戦争を忌み嫌っていたのに、それでありながら、武器を作ることは続けた。なぜだと思いますか」
アーロンは怯えながらリリーから逃れようとするのみで、話など聞いている様子ではなかった。
「戦争を忌み嫌うからこそ、身を守るためにこれが必要だった。そうではありませんか」
火皿に火薬を入れ、蓋をし、撃鉄を起こす。引き金を引けば、銃弾が放たれるだろう。
「違いますよ。銃は今この時のために作られた」
リリーはアーロンの上からどく。リリーがどいても、アーロンは動かなかった。恐怖から、もう動くことさえままならなかった。
アーロンを見下ろし、銃口をゆっくりと向けた。
「動いたら撃ちます」すっと息を吸う。「七年前からマクナイル王国に潜入していたのは執事長のテッドだけではなく、あなたもだった。そして、同じ計画に向けて行動をしていた。七年でできる限り上の立場に立つ。これはマクナイルでは難しいことではありません。それから噂を流した。国衛軍の総長として旅行の手続きに関する説明書を配布した。旅行が再開されれば後は待つだけです。旅行者が帰ってこなくなったら意思の疎通は取れたのだから、計画を開始すればいい。結果として分かったことですが、計画は電撃的で、一度始まってしまえば派手な行動をしても問題はなかった。ましてや、国衛軍のすることを疑う者はそういません。門番に代わってトンネルの警備に国衛軍を付けたときもあなたはこっちに来ることができたし、近衛兵に対し偽の指示を出すことも簡単だったでしょう。その結果シャーリィを攫うことにも成功し、――下手をした執事長を自害させることもできましたね」
そのことを思い出したのか、アーロンの表情が歪んだ。
「違う……あれは、仕方なかった」
向けられた銃口に気づいたかのように、身体を引き摺って壁際へと逃げた。背中は壁なのに、足を滑らせて、ひたすら逃げようとしている。
「計画を露見させ、準国事隊に取調べを受けるだけとなったテッドは邪魔者でしかなかった。計画のすべてを、自分のことを、話してしまうかもしれなかった。だからあなたはタグラスさんと彼を囲んで、ナイフを手渡した。そう、仕方がなかったから。……仕方がなかった? いまさら罪悪の感情を思い出しましたか。遅いですよ」
「俺は、馬鹿な女め、俺は殺してなんか――!」
その刹那、前後が分からなくなるほどの破裂音が轟く。銃口からは煙が上がり、その音が周囲に残滓を撒き散らし続けていた。耳鳴りがじんじんと鳴って、慣れるまでに時間が必要だった。リリーが銃弾を放った音だった。
銃弾はアーロンを逸れ、壁にひびを入れた。彼は口をぱくぱくとさせて、何が起こったのかも分からないような唖然とした表情を浮かべていた。腰が完全に抜け落ちて、会話もままならない様子で。
リリーは震えるため息を吐く。
「次にわたしの目があなたを捉えたときが、あなたの命日です。アーロン・ウォード、死にたくなければ消えてください」
アーロンは震えたまま何も言わず、焦点の合わない目でリリーを見上げていた。その姿があまりにも惨めで腹立たしく、怒りをなにかにぶつけないと本当にこの男を殺してしまうかもしれなかった。掴まれた腕を振り払う時にするように、銃を壁に投げつけた。銃は勢いよく壁にぶつかり、その衝撃で暴発してリリーのこめかみに弾を撃ち込む。そうなればいいのにというリリーの願いは虚しく、ばらばらになって床に落ちるだけだった。
もう、この男に用はない。
自分の行動が、いままで得てきた自分の人格と、強く乖離していることに、脳が混乱を感じていた。それでありながら怒りはいまだ胸の中を燻り、またそれこそが、冷静さをもたらしていた。
アーロンを無視して、リリーは廊下の先にある重厚な扉を開いた。




