第六十六話 .Lily
「え」
リリーは思わず声を出して驚いてしまうが、その声はアーロンによってかき消された。
「なんだと⁉」
「私はすんでのところで報告に来られましたが、ほかの皆が!」
兵士は大声で、足踏みをして向こうを指している、アーロンは一度表情を焦燥に変えたが、すぐにいつもの気取った顔へと戻した。
「分かった。ここにいるすべての戦力を以て迎え撃とう。部屋に精鋭を待機させていてよかった」
「しかし、なぜ王国が……。領土の拡大が目的でしょうか……」
解せないといった顔で兵士が項垂れると、アーロンはそれに頷いていった。
「王国は常に力で物を言うからな。我々の神聖エール教国を守ろう」
「……! はい!」
兵士はアーロンの言葉を聞いて、意気揚々と階段を降りていく。リリーの怒りはもはや頂点に達そうとしていた。澄ました顔で悪びれもなく、よくもそんなことを。国が好きなわけではない。しかし、マクナイル王国は人々の善意で美しく、平和だった。それをむごい仕方で乱そうとしたのはお前じゃないか。王国は力で物を言う? 力が無いからといって猫を殺す国の裏切り者が、よくもそんなことを。足が地面をとんとんと叩く。まだ、だめだ。飛び出すな。兵士をすべて送ると言ったのだ。アーロンは攻めてきたマクナイル兵のことしか頭にない。リリーはまだ気付かれていないのだ。運が良ければ、アーロンもそっちへ向かうだろう。そうすればアーロンはマクナイルがなんとかしてくれる。奴を殴り飛ばしたい気持ちは山々だったが、先手はシャーリィの救出だ。トンネルまでは結構距離があるはずだ。その時間は十分にある。
アーロンが部屋の中に戻り、数秒後に銃剣を持った兵士が十人ほど飛び出てきた。全員リリーに気が付くことなく、階段を駆け下りていく。
「教皇様、私も行って参ります」
最後にアーロンが出てくる。扉を閉めて、アーロンが走り出した。カンカンとアーロンの足音が響く。手を伸ばせば届く距離まで来て、その男の横顔を目で追った瞬間、リリーの冷静さは消え失せた。アーロンが横を走り抜ける刹那、リリーは立ち上がり右足で男の足首を思い切り蹴った。
アーロンが音を立てて豪快に倒れる。顔を地面に強打して、手で顔を抑えて痛みに叫んだ。うつ伏せから仰向けに転がると、彼の鼻からは鈍い色をした血がぼろぼろと溢れ出ていた。リリーは自分の中のすべての神経が逆立つのを、肌で感じた。
リリーは物陰から出て、倒れているアーロンが動けないように、膝で両腕を抑え付けて馬乗りになる。
「誰……だあ!」
アーロンは怒っているのか痛みに苦しんでいるのか、喉から絞り出すように叫んでリリーを睨みつけた。
「分かりませんか」
「き、聞いたことのある声だ。うちの兵士なんだろう! どうしてこんなことをする……!」
アーロンはリリーの身に付けている外套を見て言った。リリーは失笑して、アーロンを見下ろした。
「うちの兵士でしょう。どうしてこんなとこにいるんです」
リリーが言うと彼は一瞬抵抗する動きを止め、リリーの顔をじっと見たあと、前髪を見て「ああ……君か」と呟いた。
「タグラスさんが全部話してくれましたよ」
「話せと言ったからな」
流血は止まらないが、なにを取り繕っているのか、この期に及んでアーロンは毅然とした態度を見せようとしていた。とはいえ、身体を動かそうとしてもリリーが強く抑え付けているので思うように動けないだけだろうが。
「間違いでしたね」
「まさか攻めてくるとは思わなかった! こうしている間にもどこかで大事な姫君が我々の教義のもと生贄になるかもしれんぞ」
リリーは動揺もせず、アーロンに顔を近づけて睨みつける。
「脅しているんですか?」
「脅しなものか! 姫はここにはいない――」
リリーは顔を上げ、息を吸い込む。そして、扉の向こう側に向かって大声で叫んだ。
「シャーリィ!」
「リリー、リリーなの⁉」
返事はすぐに返ってきた。聞き間違えることはない。何度も聞いた、愛しいシャーリィの声だ。そして、部屋の中に他の兵士がいないのも分かっていた。この騒ぎで出てこないのであればそれだけで十分な証拠だが、それ以上にここがバレればもう逃げる先はないのだ。残った全兵力は前線へ向かう。さっきの十人とアーロンで全部だ。
「で、どこに隠しているんでしたっけ」
アーロンは舌打ちをして顔を背ける。ため息をつくと、諦めたように目を閉じた。その一瞬で、アーロンは身を捩らせてリリーの拘束を抜け出そうとする。
その瞬間、廊下に鈍い音と、悲鳴が響いた。




