第六十五話 .Lily
願えば願うほど、叶わないときの虚しさは大きくなる。目が覚め、清々しいほどの青空が視界を覆ったとき、リリーは自分の目が虚ろになるような、無気力感に苛まれた。
夜が終わり日が昇り、雨は降り止んでいた。あちこちに水たまりを残し、空には多少の薄い雲を残すばかりで、水面には綺麗な空と、虹が浮かんでいた。神殿の柱に寄りかかったまま、空を仰ぐ。太陽の眩しさで目が痛むのが心地よかった。
身体は動こうとしなかった。ここでこのまま衰弱して死んでしまえればいい。あるいは誰かに首を――遠くの方から耳を劈くほどの大きな破裂音がして、リリーは身体をびくりと震わせた。銃声だ。自分が撃たれたのではと錯覚したが、少し離れたところのようだった。心臓が大きく鳴って落ち着かない。
ふらつきつつ、音のした方へ向かう。脇腹が強く痛んだ。物陰に身を潜めて、昨晩潜り込んだ建物の方を見張ると、銃剣を持った二人の兵士が、空を見上げて指をさしていた。リリーもそちらを見るが、空にはなにもない。眩しさに目を細め、すぐに二人の兵士――男と女だ――を見る。
「いまのはなに?」
会話が聞こえてくる。リリーは物音を立てないように聞き耳を立てた。
「あれが叛逆者ってやつか?」
「だったら相当――」
聞こえそうで聞こえない距離だ。彼らのものと同じ外套を身に着けてはいるが、目立つ汚れが多かった。なんとかして気づかれないように近づこうとすると、兵士の一人が「教皇様に伝えに行こう」と言ったので、すぐに身体を引っ込める。
……しめた。尾ければ居場所が分かる。
リリーはフードを深くかぶり、動向に注意しながら距離を置いて付いていく。「だったら相当――」なんだったのだろう。彼らは空になにを見て、銃弾まで放ったのか。
兵士が建物の中に入っていく。ここも背が高い建物で、周りに警備らしき兵士は一人もいなかった。ミカフィエルの高層の建物群は、もともと多くの人々を住ませるための住宅街として、そしてマクナイル城下の郊外として開発されてきたことを理由に聳えている。それ故に高層建築が街の至るところにあり、階段を駆け上がりながらこれらの内部にある部屋一つ一つを調べていくのはほとんど困難だ。だからこそ、警備を置かない。明かりを点けない。
偽装として唯一明かりを点けたままにした建物があったのも本当の居場所を隠すためだ。リリーはミカフィエルに教皇がいる可能性を最初から考慮してここに飛んできたが、そうでなければ高価な剣に騙されエールへと探しに戻ることだってあっただろう。
兵士たちが迂闊で助かった。おそらく、こいつらも作戦の本当の重要性を聞かされていないのだ。その証拠に、叛逆者という言葉を使っていた。
彼らの外套の紋章はリリーと同じものだったので、リリーも入り口を潜った。内部にはさすがに兵士が待ち構えているだろうと思ったが、意外にもがらんとしていた。リリーの上から足音がするのを聞いて、リリーも登っていく。
混凝土造りの建物は殺風景なほどに閑散としていて、夏なのにひんやりとしていた。さあと爽やかな風が窓から吹き付けてくる。状況が違えば、静かな夏の一日だ。不思議と、もうすぐそこに憎き敵がいるというのにすっきりとした気持ちだった。昨晩のことにも、いつの間にか自分の中で踏ん切りがついているような気がした。自分の中のどんな感情がそうあろうと思っているのかは分からなかったが、だからといって居心地がいいわけではなかった。
建物はかつて飲食店がたくさん入っていたのか、どの階層も食事の一覧表や机が散乱していた。住宅街としての土地しかなかったから、住宅用の建物を改造してお店として使うしかなかったのだ。
八回ほど階段を登りきったとき、雰囲気ががらりと変わった。これまでの階層は常に開けていて、その階全体が一つの部屋として機能していたが、ここはひどく狭い。というのも、階段を登った先は人が三人横並びで通れるほどの広さの廊下であり、その先に部屋に繋がる大きな両開きの扉が備え付けられているのだ。
階段の横に休憩用の空間があり、お店の立て看板があったため、リリーはそこに身を潜めた。教皇がいるなら、あの扉の先だ。
リリーは物陰の隙間から、様子を眺める。
「失礼します! 三等兵、オールと申します!
一人が、大声で扉の向こうに呼びかけた。
「どうした」
向こう側からは、淡々とした返事が戻ってくる。聞き覚えのある声だったので、リリーは奥歯を噛み締めた。
「今しがた、上空に不審な飛行体を目撃したのです」
「飛行体?」
飛行体。さっき銃口を向けたのはそれか。しかし、だとしたらそれはなんなのか。
「翼持ちの天使では、と」
兵士がそう言うと、がちゃりと音がして扉が開いた。出てきたのは、見紛うことはない。知っている顔の男だった。リリーは自分の身体中の血液がずるずると体内を駆け巡るのを感じて、呼吸が荒くなるのを感じる。顔を出したのは、そう、見紛うことはない。あのアーロンだ。
アーロンは半身を扉からだし、兵士たちに中を見せないようゆっくりと出てきた。その姑息さすら、リリーは許す余裕がなかった。見られてはいけないものがあるとすれば、それは教皇か、シャーリィか――あるいはそのどちらも。
シャーリィ! そう、早く彼女を救わなければ。何人殺そうとも。リリーの足は今にも飛び出しそうだったが、ぎりぎりの理性がそれを抑えつけていた。いますぐ飛び出して、あの忌々しい男の顔をぶん殴って、シャーリィに抱きつきたい。
「特徴を教えてくれるか」
兵士はさらに姿勢を正し、アーロンの質問に答える。
「逆光でしたし、高度があったのではっきりと目視はできませんでしたが、長い銀髪の女のようでした。速くて目にも止まらず、一度銃を放ちましたが、捉えることは適いませんでした」
アーロンは静かに顔を伏せなにか考える素振りを見せたあと、兵士たちに微笑みを見せた。
「分かった。ありがとう、戻ってくれ」
――殺す。
歯の奥がぎりっと鳴る。なにかを踏み潰していながら、わたしから大切な何かを奪っていながら、その顔で笑っていられる神経が腹立たしい。どこかおかしいのだ、あの男は。
兵士たちはリリーに気が付かず下へと戻って行ったが、数秒後にどたばたと階段を駆け上がってくる音が聞こえた。彼らが戻ってきたのかと思えば、さっきの兵士とは違っていた。髪をかきあげてまた扉の向こうに消えようとするアーロンんい、階段を登ってきた兵士は慌てた様子で声をかけた。
「アーロン様! 王国の兵士です! マクナイル兵がエールを鎮圧しました! ミカフィエルではいま、トンネル付近で交戦中です!」




