第六十三話 .Lily
ミカフィエルの上空に辿り着くのには数分も必要なかった。ここには背の高い建物が多い。その分部屋も多く、ここまで来ても、結局のところ骨を折るように探していくしかない。そう思い上空から街を見下ろす束の間、その必要がないことが分かった。
この国は眠っている。国民はみなエールへと連れ去られ、人は一人もいない。エール教徒を除いては。街の中で、唯一明かりを灯す建物を見つけた。下では兵士がうろついている。心なしか胸が踊った気がした。シャーリィがすぐそこにいる。わたしが辿り着いたのだ。
明かりが点いていない階が一つだけあり、リリーは下の兵士に視認されないようゆっくりと旋回し、空いた窓から内部へ飛び込んだ。無事に着地すると、すぐに辺りを見渡す。大きな音は立たなかったはずだ。耳を澄ませても、人の足音がすることはなかった。暗がりの中で確認できることは多くないが、どうやら安全に侵入することができたようだった。一息つきながら立ち上がり、スカートのプリーツを正すその刹那に、リリーは本能的に身を屈め床に手を付いた。風を切る音がリリーの真上を掠っていく。瞬間的な息切れがリリーを襲う。その間に血が体内を高速で駆け巡るのを感じる間、身体は硬直し動かなかった。その次に脇腹に鈍痛が走り、地面に転げる。
いた! いたのだ! 敵が!
必要な準備を済ませた身体が臨戦態勢を整える。痛みに向き合えばすぐに動けなくなる! 転げた先から受け身を取るようにして、痛みのあったその場から距離を取る。状況は分かっている。何が起きたかは分かる。次にどうしたらいいのか考えろ。目を向けると、リリーの二倍はあろう巨体が、少し先にぬっと立っていた。演舞でも使われないような長い太刀。鞘に収まったままだが、あれがさっき上を通ったのだ。
「うちの外套を羽織っているから少し迷ったが」男は近くに置いてある椅子に近づき、その背もたれを掴んだ。「窓から入ってくるのはおかしい。まして、翼持ちの黒髪だ」
「何をしにきた、悪魔よ」
悪魔と呼ばれるのは久しぶりだった。外套のフードも外れ、その翼さえ黒ければ、何を言われても仕方のないことだった。しかし、わたしは。わたしはその言葉から一度、わたしを守ってくれた人を。
「分かっているはずです」
探しに来たのだ。腰のナイフを抜く。小さな金属音が、リリーに冷静さをもたらした。身体はなお熱いまま。唯一明かりの付く建物。アーロンの隊で無ければなんだ。シャーリィのことを知らないわけがない。
「そうか。狙ってきたのだな。いまこの場から逃げ出せば許してやる。争いは好まない。教皇様にも突き出さずにいておいてやる」
大男は低い声でリリーに話しかける。その声色は脅すようでいて寂しく、そして優しさを帯びていた。柄を握り直す。……人が悪いのではない。色々なことが悪いのだ。想像もつかぬ悪意が、いつも悲劇を生み出す。冷静でない自分ではなかった。エール教徒だから悪いのではない。逃げ出せという言葉が、彼の本心だと分かる。だが、知っている。こいつは知っている。
「知っていることを吐いてもらいます」
男が目を伏せる。
「愚かな悪魔だ。しかしお前にも、俺が悪魔に見えているらしい」
「当然だ!」
怒鳴り、その音が反響しきらない間に、リリーは駆けた。奴の間合いは危険だ。しかし、太刀と腕が合わさるその間合いは広すぎ、懐に入り込むのは容易だ。しかし、そんなことは本人が一番よく分かっている。大男が掴んでいた椅子をこちらに投げた。減速しきれず左手に倒れ込むようにしてその椅子を避ける。体勢を立て直そうとする瞬間に、男の姿がないことに気がついた。椅子に隠れて間合いを詰めていたのだ。それに気がつくと同時にリリーは距離を取ろうとするが、体勢が崩れていて立ち上がるのに一瞬を要した。倒れ込む勢いをそのまま足に伝え、その速度が死なないうちに大男を目で追うようにぐるりと身を翻す。が、遅かった。
「ぐっ……!」
鞘を付けたままの太刀が、リリーの脇腹にえぐりこむ。さっきと同じ場所だ。痛みに苦悶の声を出しながらも、リリーはその太刀を脇で抑えつけた。動くな。脇に太刀を挟んだまま踏み込み、反対の手に持ち替えたナイフを、太刀を持つ男の手めがけ振り下ろす。
しかしうまくはいかない。ナイフは男の手によって掴まれ、リリーはぎょっとする。動かそうとしてもナイフは男の手の中で微動だにせず、次の行動を読めば手放す以外の選択肢がなかった。だが、これも遅い。男の間合いだ。
まずい、まずい! 間合いを抜け出そうとするも間に合わず、男は上半身をゆっくりと回すと中段蹴りをリリーに喰らわせる。
身体が宙に浮く。このまま地面に身体を打ち付けたら、その後は為されるがままだ。ふと諦念の感情が降りてくる。身体の節々が物理的な攻撃によって悲鳴を上げている。喧嘩の最初の勢いも、痛みを忘れられる瞬間も、もはや過ぎ去っていた。痛い、痛い――。
「少女よ、なぜ」
男の声がゆっくりと耳に入ってくる。
なぜだと?
悲鳴を上げる。短く小さな悲鳴だ。リリー・エウル。なぜここに来たのか。なにが痛い? 身体が? 痛いからなんだと言うのだ。この小さな、目的を果たさなければ意味のない肉体が痛むからといって、叫ぶからといって、なんなのか。――夜の闇が味方だった。常に。人の顔色を窺わなくていいから。
姫君を救いに来たのだ。兵士は! 忘れるな。少女ではない。わたしは悪魔だ。
背中の翼が音を立てて空を切る。地面に落ちかけていた身体がふっと浮かび上がり、リリーはそのまま地面を蹴飛ばし、更にその速度で横の壁を蹴飛ばした。翼の一振り、その速さが目にも止まらぬ速さでけして広くはない部屋の中、リリーを旋回させる。剣を抜く。轟々と鳴る耳もとの風、部屋の中で鳥が駆け回れば、人には為す術もない。大男はリリーの視界で狼狽を表情に浮かべていた。男の横を一度通り過ぎる瞬間に、男の左手を剣先が掠った。リリーから奪ったナイフが床に落ちる音がする。また壁を蹴る。
もう半周、リリーは部屋を円転した。剣を鞘に仕舞い直し、その柄を握る。左腕は傷つけた。右腕だ。去り際に素早く切る――! 男はこちらの速度に追いつけず、振り向き際だった。
疾風のように動く身体が、自らの間合いに入る。剣を鞘から抜き、男の腕に可能な限り浅い傷をつけようとしたその瞬間に、リリーにとって予想外のことが起きた。男の体勢がぐらりと傾いたのだ。なにが起こったのか理解しようとする。椅子だ。さっき男が投げ、壊れて散らばった椅子に、男が躓いたのだ。それを理解するのが先だっただろうか、剣を抜いた右手に嫌な感触が伝わるのが分かった。分かって、呼吸が喉に詰まる。速度はそのまま、勢いを殺せず、慌てた身体が地面を転がり、壁に突き当たって背中を打ち付けた。
――目の前で、大きな影がのんびりとした動きで倒れるのが見えた。生温かい水滴が、リリーの頭上に降り注ぐ。
「あ」
いまが、現実かどうか確かめるために出した声は漆黒に虚しく響いて消えた。




