第七話 .Lily
階段を一歩ずつ登っていく。いい加減につらくなってきた脚を気合で運び、自分を励ましながら、ようやく三階に辿り着いた。
ここまで来れば王室はすぐそこだ。廊下を少し歩いて、大きな両開きの扉の前で立ち止まる。扉の脇に立つ近衛兵に、リリーは軽く挨拶をする。特に確認などもなく、リリーはいつものように扉に近づき三度扉を叩いた。
「どちら様でしょうか」
それに対して返ってきたのは女王の声ではなかったが、誰のものであるかはすぐに分かった。メイド長のサラ・スカーレットだ。声を聞くと、無表情ながら優しく気を利かせて立ち回る彼女の姿が思い出される。ここに来るのも久しぶりだ。いまさらながら少し緊張してきた。
「リリー・エウルです!」
「リリー! リリーがきたの?」
今度聞こえてきた昂奮した声は、紛れもなく女王ターラのものだった。
「わたくしが出ますから」
サラの諭す声が聞こえるが、きっと聞いていない。ぱたぱたと駆け寄ってくる彼女の足音が聞こえる。これはいつものことだ。リリーは扉から数歩遠のいた。
その瞬間扉が勢い良く開き、扉の脇に立っていた近衛兵の髪がおもしろいくらいに乱れる。これもいつものことだ。あと一歩でも前に出ていたら、開いた扉がリリーの顔に直撃していたことだろう。王室からはブロンドの髪をなびかせた女性が飛び出てきて、リリーに抱きついた。嬉しそうな声でリリーを歓迎する。
「リリー、久しぶりじゃない! 今までどこでなにをしていたの?」
「お仕事ですよ!」
開いた扉の風で乱れた前髪を直し、リリーも抱きつき返す。しかし髪をわしゃわしゃと撫でられたので、前髪を直した意味が全然なくなってしまった。もはや気にしないようにして、リリーはターラの胸に顔を埋める。この感覚も久しぶりだ、その安心感といったら他に代わるものはない。一方ターラはといえば、リリーが身につけている制服の生地が堅いことが気に食わないようだった。
「ほんと、同じお城にいるっていうのに、どうしてこうも会えないのかしら」
「女王様が忙しいからですね」
抱擁をしばらく堪能して、顔を離す。リリーを見下ろすターラを、リリーは見上げた。
「そうは言っても、リリーが会いに来てくれれば会えると思うんだけどなあ」
いま目の前で拗ねた顔をしているこの女性こそがこのマクナイル王国の国王である。背中まで伸びたブロンドの髪の毛はほどよく波打ち、シャーリィとよく似た色の瞳が、綺麗な顔でひときわ目立っている。
「努力はしてるんですけど……」
「まあ、リリー大活躍だものねえ。この前なんてたしか現場に残された足跡と髪の毛と被害者の証言から――」
アナと同じようなことを言って、ターラは王室へとリリーを案内する。
マクナイルでは初めての女性国王。前国王の一人娘として可愛がられ、前国王が崩御すると王位を与えられた。
ターラに先導されて、王室へと足を踏み入れる。後ろで扉が閉まる音が聞こえた。
「――しかもそれが準国事隊を出し抜いた……」
「いらっしゃい、リリー」
「ヘレナさん!」
また綺麗な女性がリリーに声をかけてくれる。リリーはターラにしたようにその人にも抱きつきに行った。
初の女性国王の誕生はそれだけで国民を驚かせたが、人々がもっと驚いたのは、女王と結婚したのも女性であるということだった。
マクナイル、というよりも聖域では、男性よりも女性の人口のほうが圧倒的に多く、女性同士で結ばれることが多い。中には女性しかいないような街もあり、今では珍しくなったが、人生で一度も男性を見たことがないという女性もいるくらいである。それでも子孫が続くのは『神聖出産』のおかげだ。
これにも語り継がれてきた神話がある、というか、学者がお手上げした事柄はすべて神話で説明するしかないのだが――。
人間界に失望し聖域を創り上げた神は失意に飲まれて消滅し、新たに女神『ミカフィエル』がその意志を継いだが、その女神は男性に対して強い嫌悪感を抱いていた。下の世界で起こった戦争について、「男が野蛮であったから起こったものだ」と感じていたからだ。実際にはどうだったか分からないが、少なくとも、それ故に女性だけの楽園を創ろうと考えたのだった。しかし女性だけでは繁殖ができず、聖域は百年も経たないうちに誰もいなくなってしまう。永遠の命を授けることも考えたが、天使たちのことを思うとそれはあまりに残酷に思えた女神は、女性同士でも子供を授かることができる仕組みを作ることにした。それこそが『神聖出産』である。結局、女神は男性の存在も認めることになるのだが、それはまた別の話だ。
聖域には神話で語るくらいでしか説明の仕様がないことがたくさんある。神聖出産は然り、翼を授かることができたり、七色の流星が空を駆ける夜があったり――。神聖出産はその中でも、もっとも人々が触れる機会が多いものだろう。あらゆる理由で子供を作る事ができない夫婦に、子供を授けてくれる。同性婚や病気。愛し合う二人が聖堂で愛を誓い目を閉じて祈りを捧げると、祭壇に赤ん坊が寝かされているのだという。必要なのは真実の愛だけ。その光景はなんとも神秘的で美しいものらしい。リリーはその様子をいずれ見てみたいと思っている。
マクナイル王国は特定の宗教を持たないが、語り継がれている神話はミカフィエル教のものである。宗教に関するものに厳しいとはいえ、マクナイルではそれは一つの物語、解釈として受け入れられているのが現状だ。当然、エール教はこの神話をこれでもかというくらいに批判している。
というわけでマクナイルの最高権威は女性二人ということになる。もともとマクナイルには女性が多かったが、王政が始まった頃から王は男性に任されてきた。昔の人も色々考えたのだろう。ミカフィエルの女神がどう思ったかは分からないが、結局のところ女性たちは男性が権力を持つことが多かった下の世界から送られてきたのであり、まずはそうすることに決めたのだと考えられている。ターラが王になった当初は国民も「不安だ」と口々に言ったが、次第に二人の逞しさと基盤のしっかりした政治に取り組み始めた彼女たちに国は次第に魅了されていき、いつしか多くの国民に支持されることとなった。このまま行けばシャーリィが女王となるので、二代に渡って女性が王位に就くことになるんだなあとリリーは思いを馳せる。女王シャーリィ、どんなだろうか。その頃わたしは彼女の横に、兵士として立っているんだろうか。
「どうぞ、リリー様」
意識を王室に戻すと、メイド長のサラが、気づかないうちにリリーの席とココアを用意してくれていた。
陽の当たる窓際に置かれた小さなティーテーブルを、ターラとヘレナは囲んでいた。二人の隣にリリーも座る。部屋には煌びやかな装飾を施された王座もあるが、彼女達が好んで座っているところは見たことがない。
「ありがとうございます、サラさん。ココアまで」
リリーは目を輝かせて、ココアや茶菓子を見た。サラは微笑んでかぶりを振り、少し離れたところで姿勢を正すとお人形のように動かなくなる。表情こそ少ないけれどその物腰は柔らかで気取った印象はない。「使用人は目立たないのがいいのです」といつか言っていたのを思い出す。カチューシャからはみ出た銀髪は胸の辺りまで伸びていて、陽に当たって輝いている。メイド服を着ているのに、まるで高尚な家柄の娘なのではないかと思わせる様相だ。
カップを口に運ぶと、適温の甘すぎないココアが口内で滑った。リリーの好きな味だ。サラはそれを覚えてくれていて、来る度に同じものを出してくれる。満足に頬を緩めていると、ヘレナがリリーに声をかける。
「それで、どうしたのリリー? 遊びに来てくれたわけではないんでしょう」
王妃のヘレナが優しい声音で問うてくる。リリーを見て首を傾げる仕草は少女のようだ。ヘレナはいつも穏やかで、怒ることもあっても逆に見ている人の顔を綻ばせてしまう。すすき色の髪の毛がすっと背中まで伸びていて、大きな目からは棘が生まれない。ターラとは、特徴が真逆のように見える。
「それか、シャーリィちゃんに会いに来た?」
リリーは首を振って、カップを置く。ソーサーにティーカップが触れて、小気味のいい音を鳴らした。
「会えるのなら会いたかったけど、今日は別件です。……穏やかではありません。今朝方、城下町で起こった事件について――」
「……事件」
ターラの表情がさっと変わる。リリーは頷くと、順を追って説明していく。まだターラ達の耳に話は入ってきていない。リリーが初めて二人の耳に入れるのだ。そのことを思い出し、これは身に余る大役なのだと感じる。当たり前のことに気がつくとともに、身が引き締まった。