第六十一話 .Lily
夜が明けるまでにはまだ時間がある。リリーは気味の悪い自分の黒い翼を、少し都合よく感じ始めていた。昼ではかえって目立つだろうが、夜の闇の中に紛れてくれる。
山の上、木の陰から、リリーはエール教国の様子を見る。聖域を横断してマクナイル王国とこの国とを切り離している高い山は、翼があれば越えることは容易かった。ここからは、エール教国の首都を壮観することができる。ざっと見渡してから、ゆっくりと高度を下げた。人の動きが見える。
夜中だというのに、エールは眠りの雰囲気を見せていなかった。街燈が一面を照らし、ランプを持ち武装した兵士が辺りをぞろぞろと歩いている。すごい数だ。中には兵士とも言えないような国民もいるに違いない。ただ武装しているだけのような身のこなしの者も少なくなかった。
リリーは一番近いところにある監視塔に目をつける。石造りで円柱形の塔の上には一人の兵士がいて、暇そうに塔の下の方を眺めていた。
「……ひとり」
ならいける。リリーは一度だけ翼を羽ばたかせて宙に浮く、近くの木を蹴り飛ばして、その勢いで二度大きく翼を振った。体感したことのない速さがリリーの身を包む。衝突まで秒読みというところで、兵士がこちらに気がついた。声を上げる前に外套をひっつかんで、地面に押し付ける。手に握っていたナイフを、彼の顔の前にちらつかせる。
「大きな声を出したり、変な動きをしない限りは、このナイフがあなたに傷をつけることはありません。いいですね」
女の兵士が小刻みに頷く。
「わたしの質問に答えてください」
表情を引きつらせた女は、ナイフとリリーの顔の両方を見比べて、また頷いた。
「姫はどこにいますか」
「ひ、姫? この国に姫はいませんが……」
ナイフを握り直して彼女の首に近づける。
「おとぼけに付き合う暇があいにくありません」触れた切っ先が首の薄い皮に食い込み、鈍い色の血を垂らした。女は小さく痛みを口に出す。「あなたたちが攫っていったマクナイル王国の姫君です。うちの姫がいるから、兵士を総動員して、こんな厳重な警戒体制を敷いているのではないのですか」
「い、や……そんなこと聞いてないです……! 我々に仇なす組織が、国内にあると……その叛逆が近いうちに起こると……、そう言われて駆り出されて……。王国の姫なんて、聞いてません」
……実際の状況とは大きく異なっている。もしこの兵士が本気でこれを言っているのだとしたら、この大所帯は嘘の目的で動いているのだろうか。そして、彼女が言った目的は、兵士を駆り出して警戒態勢に当たらせるには、もっともらしい理屈だ。この期に及んで、この嘘が、この兵士につけるだろうか。もし本当にそう聞いていて、そう言っているのだとしたら、末端の兵士には本当のことは聞かされていない可能性がある。なぜ。いや、なぜかどうかは別にどうだっていい。彼女らは何を知っていて、何を知らないのかが重要だ。
彼女の外套に目をやる。ナイフを少しだけ首から離す。表皮に傷がついただけだ。これが致命傷になることはないだろう。痛む良心をリリーは抑えつける。
「これは階級章ですね、あなたの階級はいくつですか」
「……末端です、三等兵です」
だから私など尋問しないでくれ。そういう顔だった。いたたまれなくなり、リリーは兵士の上からどき、手を差し出す。
「座れますか。手荒にしてすみません。静かに話せますか。いま騒がれても、わたしは飛んで逃げるだけです」
彼女は困惑を表情に浮かべながらも、リリーの手を取った。
「事情があるのでしょう」
「……はい」




