第五十九話 .Lily
自室に着くと、机の上の小さなランプだけを点けて、引き出しで寝かせてあった日記帳を取り出した。シャーリィにもらった、大切な手帳だ。――シャーリィは、日記になにを書くのだろう。そもそも、日記など書くのだろうか。昨日は昨日、今日は今日。そんなことを言いそうな気がする。その表紙を優しく撫でると、リリーは頁をめくった。
空白の頁。左上に日付を記入すると、一行目から、今日のことをごく簡単に書いた。いつもであれば、もう少し細かく書くけれど……、そこまでの時間は残されていなかった。リリーの文字は、次の頁へ突入した。紙と紙が擦れて乾いた音を出す。ペンと紙が擦れる音は、夏の終わりの烏の鳴き声のように掠れていた。
やたら冷静だった。胸の中にぽっかりと存在する空間を感じる。少なくとも、この日記帳だけは、全部埋めてあげたかった。文字と、思い出で。まだまだたくさんの空白を残しているのだ。金貨一枚も、返していないのに。
――これを一番に読むのが、帰ってきた自分だったらと願っています。けれど、それであれば、こんな文章を書く必要もないので、誰かに読んでもらうこともまた、必要なことです。
驚くべきことに、たった一人にできることというのは、この世ではひどく限られています。ほとんどのことは、誰かに頼らなければ、まともに成し遂げられません。それでこそ、一人でできることがあるとすれば、それは貴重で、むしろ、すべきことと言えます。
タグラスさんから提示されたシャーリィ解放の条件は、たった二択でした。シャーリィを救うか、国を救うか。
わたしにとって、どちらか一つを選べと言われれば、それは決まっています。シャーリィを救う方です。シャーリィがいない世界に、国に、なんの意味があるでしょうか。年齢の割に頭がいいと褒められてきました。本当にそうでしょうか。おそらくは、全く正しくないのでしょう。わたしに政治は分かりません、少なくとも、シャーリィの前では、無意味です。自分の中にある狂気を疑わずにはいられません。わたしはいま、彼女以外のことは何も考えられないのです。
日記を閉じて、リリーは自室をあとにした。
マクナイル城近衛兵用の武器庫に忍び込む。訓練でも使われなくなって久しいこの部屋は、息が詰まるほど埃が舞っていて、乾燥していた。そこから短いナイフと、一番上等な剣を二本見繕って、腰のベルトに付けた。
武器庫を出て、更衣室の方へ向かう。そこには用がなく、リリーは廊下の窓から身を乗り出して、飛び降りた。裏庭の芝生を靴底で感じる。時刻は十一時五十分、頃合いはちょうど良かった。リリーは階段を下って、城下にくだり、城をぐるりと半周して、森の中へと入っていく。辺りは薄暗く、人の気配は感じられなかった。
ゆったりとした風が木々を揺らす。葉が急かすようにが擦れ合い、鳴る。木々の隙間から月が見えた。リリーの足音だけが響いている。月光は夜の森を淡く照らしている。気持ちは不自然なくらい落ち着いていた。思い切りの良さには、元来自負があった。リリー・エウルはこの時のために、このために生まれて、この人格を形成していったのだと信じることすらできた。シャーリィを救うために、思い切りもよくなったのだ。
昨日の夜も月の光が、こうやって。窓の外から届いていたのだ。シャーリィの声が頭の中で響く。泣きそうな声も、甘えた声も、何もかも。まるで横にいるかのように。
開けた場所に出る。視界に小さな湖が映る。水面には月が浮かんでいた。吹く風がそれを歪ませ、リリーはふっと息を吐いた。ここにしよう。
強い風が吹いた時だった。木の葉の揺れる音に混じって、人の足音が聞こえた。懐中時計に目をやっていたリリーは、すかさず後ろを振り向く。
「なにしてるの、こんなとこで。そんなカッコで」
「……アリス」
アリス・メイリーが立っていた。月明かりで、彼女だとすぐに分かった。




