第五十八話 .Lily
やっておかねばならないことがある。
リリーは階段を下って、彼の背中を探した。傷つけないようにと嘘をつき、逆に傷つけてしまった彼と会わねばならない。探している間に、ふと頭にアリスの言葉が浮かんでくる。
『謝罪や愛想は必要なことだけど』
『仲直りってのはさ、結局のところ、子供のための言葉なんだよ』
リリーは中庭で歩みを止めた。日の沈み真っ暗になったそこで、ヘイリーが白詰草を摘んでいる。
……ヘイリーに謝るのは、正しいことだろうか。こんな場所で、白詰草を編む彼の寂しそうな背中を見て思う。ヘイリーは謝られたらどう思うだろうか。嘘をつかなければよかったと今になって思うように、謝らなければよかったということにならないだろうか。リリーはあの時、はぐらかしたのだ。ヘイリーが自分の猫を気にかけて、マクナイルに行ったリリーにその事を聞いた。リリーは知っているのに、知らないふりをした。ヘイリーはそれを知らない。リリーが知っていたということを知らないのだ。だから、謝らなくてもいい。
子供のための言葉。アリスの言っていたことが頭から離れない。彼女の言っていたことは、極端ではあるけれど、正しい。悪いことをしたら謝り、謝られたら許す。形式ばった謝罪の儀式が、ここでなんの役割を果たすだろう。やめてしまってもいいのだ。
「ごめんなさい」
ヘイリーに近づいていって、頭を下げる。「ヘイリー君の猫がそうなってしまったこと、わたし知ってて隠してた」
リリーがいることに気が付いていなかったのだろう。ヘイリーはしばらく目をぱちくりとさせて、リリーのことをまじまじと見つめているようだった。彼は女の子のような細い指で絡めた白詰草を暗闇の中に放り投げて、リリーの前に立った。ぬるい風が走り抜けていく。
「リリーさんが悪いだなんて、僕思ってませんよ」
ヘイリーのか細い、優しい声が闇夜に消える。リリーはそれを耳でしっかりと捉えたのに、すべて聞き逃してしまったような気がした。怒鳴られるだろうか、突き飛ばされるだろうかと思っていたから。むしろ、そうしてくれたほうがありがたいとも思っていたから。ヘイリーのなだめるような声に、方向感覚さえ狂うような気がした。
「ううん、わたしが悪い。だってそうでしょ、わたし知ってて――」
「僕のためを思ってくれたんでしょう。僕を励まそうと。違いますか?」
リリーは頭を上げて、彼の丸い瞳に縋るようにして見つめた。小刻みに首を振る。
「違う」声が震える。「ヘイリー君に悲しんでほしくないからなんて理屈づければいくらでも言えるけれど、結局のところ、わたしはその事実を知ってしまって、それをあなたに伝えて、傷つけてしまって、その責任を取る勇気が、わたしになかっただけなの。……わたしって、ほんとに、そういうことばかりで! その――」
ヘイリーが少しリリーに近づく。リリーは足を地に付けて、じっと、ヘイリーの怒りを待った。
「それでも、僕はリリーさんが悪いだなんて少しも思いません。それとも、僕を怒らせようと思ってついた嘘なんですか? いえ、それだったらこうして謝りに来ません」ヘイリーの声が少し乱暴になる。「つきたくてついた嘘じゃないじゃないですか。悪いのはリリーさんじゃなくて、エール国です。エール教徒です。そうでしょう? 神聖エールなんて語ってますが、彼らには神が……女神様が何なのか、まったく分かっちゃいない。……もし僕がリリーさんの立場でも、言えなかったと思います。もしかしたら、こうして謝りに来ることもできなかったかもしれません。だって、謝らなければ、僕はリリーさんが知っていたということを、知らなかったんですから。僕はリリーさんを責めません。少しも、ですよ」
怒られたほうがまだましだった。それでヘイリーに嫌われて、突き飛ばされでもして、それでいいと思っていた。しかし、彼はリリーに対して怒った様子なんか微塵も見せない。あまりにも純粋な瞳をしているので、自分とは生きている世界がまるで違うのではないかとさえ思ってしまう。リリーはどうすればいいのかさえ分からなくなって、その場に立ち尽くした。
「ヘイリー君、ちょっと優しすぎるんじゃないかな……っ、怒ってくれたほうが、まだ救われたのに」
「僕は、僕のために、国のために、誰かのために、そんなに頑張っている人を怒るほど罰当たりではありませんよ。リリーさん! ほら、今日はもう休みましょう」
ヘイリーは困った顔をしていたが、リリーが落ち着くまではそばにいてくれた。三歳も年下なのに、彼のほうがずいぶん大人っぽい。それどころか、少し男らしく見えて驚いた。
ときおり鼻をすすりながら、リリーはその足で図書館へと向っていた。これで、禍根は消えただろうか? いや、たくさんある。けれど、心残りはたったひとつでも消しておきたかった。
自分のできることには限界がある。少なくとも今の自分には。
図書館へと入り、身長の倍はある本棚に視線を巡らせながら、目的の本を探していく。いくつもの本棚、溢れんばかりの書物たち。いつしかの王様が、こういうものを収集するのが趣味だったという。それらの背表紙に目を走らせる。
……あった。
探しているのはたった一冊ではない。そこの棚から似たような種類の本を取り出し、脇に抱えて近くの机に置いては、また本を持ってきて積む。図書館にいる顔なじみたちも、リリーのことを不思議そうな顔で見ていた。
やがて十冊くらいの分厚い本の塔ができて、ようやくリリーは椅子に座り、呼吸が整うのも待たずに上から本を取って開いていく。本の背表紙に書かれていることは多少の違いはあれ、どれも似たようなものだ。『翼』『羽根』
一冊、二冊と、表紙を開いては目次を見て、必要な章から欲しい情報だけを抜き出し、飛ばし飛ばしで読んでいく。あまりに多すぎる文字の羅列を、頭のなかに叩き込んでいく。分からなければもう一度読み直し、理解できるまで見つめる。
しばらく集中していると、ふと誰かに肩を叩かれた。少しだけ驚いてリリーはページをめくるのを中断し、顔を上げる。
「あ、アリス。どうしたの」
「気がついたらいなくなってたから、探してた」
アリスは少し顔に疲労を浮かべて、リリーの横に座った。
「ごめんね、なんか、いたたまれなくなったっていうか」
「まあ、あんな雰囲気のところにいたらいろいろ毒だよ」アリスは一度口を閉じ、眉を顰めた。「……トンネルのとこの門番が、負傷した状態で見つかったってさ」
リリーは酒場で受けた歓迎と、会議で口裏を合わせてくれた彼らのことを思い出す。荒々しくはあったけれど、暖かい人たちだった。
「アーロンはエールに行ったんだね」
素直に通せば、彼らは怪我をしなかったのだろう。つまり、死に物狂いであそこを守ろうとしたのだ。アリスは少し間を置いてから頷くと、机の上に目を落とした。
「……なに読んでたの?」
「ううん、なんでも」
リリーは本を閉じ、脇に置く。アリスはあまり興味がなさそうに、椅子に座って手を机の上に投げ出した。
「エール国と戦うのは、アリスが先頭に立っても難しい?」
「あの国がどれだけの力を持っているかによるかな。地形の資料があるから戦術は立てやすいけど、建物がどうなってるか分からないし、ほんとうにその時になったら、ぶっつけ本番みたいなものだよ」
こういうときこそいつも通りに振る舞わなければと思うのに、やはり、自分は弱いのだとリリーは思う。気がつけば、アリスの細いのにしっかりとした指に手を伸ばしていた。アリスはそれを見て、くすりと笑う。彼女のまつげの長さに、リリーは少しどきりとした。
「なに、甘えてんの?」
「ううん。べつに」
リリーはぱっとその手を離して立ち上がった。机の上に積まれている本を棚に戻す。アリスは座ったまま、その様子を眺めていた。
「わたしもう寝るよ。また明日」
本を片付けて、頬杖をついて眠そうな顔をしているアリスに言う。彼女は小さく頷いただけで、何も言わなかった。それを別れの挨拶をみなして、リリーは自室へと歩き出した。




