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Lily in Black  作者: 小佐内 美星
第六章 傷と罰
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第五十五話 .Lily

 ふと頬を汗が伝っていって、リリーの身体は思い出したかのように蒸し暑さを訴えてくる。タグラスの話に夢中になっていたからだろうか。リリーはその彼女を見る。するとタグラスも同じように、額に汗を滲ませていた。心なしか頬も赤くなっているので、けして涼しくは思っていないだろう。不思議なことに、彼女は夏でも正装を身に着けているのだ。国衛軍の制服は近衛兵と同じように、正装と夏用の制服に分かれ、冬の制服は正装をそれと併用する。夏でも式典の時などは正装を身に着けているのだが、夏の何もない日に正装を着ている人はほとんど見かけない。会議の時と同じく、タグラスは今日も正装であった。


「タグラスさんは、いつも正装を着ていらっしゃいますね。暑くないですか? こちらには気を使っていただかなくてもいいですよ。我々も夏服ですから」

「ん? ああ、そうね。まあ暑いけど、私はこれの方が落ち着くのよ」


 とは言うものの、タグラスもさすがに耐えかねたのか、上着のボタンを上から二番目まで外した。生地の厚い服でも彼女の身体つきの良さはなんとなく分かっていたが、服の隙間から見えた胸はなんとも扇情的だ。リリーはほけーとその様子を見ていた。


「制服ってそういう配慮がないから困りますよね」

「ふふ、そうね。私は制服を着るのも仕事だと思って割り切っているわ」

「なるほど。参考になります……」


 リリーはタグラスの胸に集中しながら言う。私は成長期だから可能性はある。アリスはもう成長しないだろうけど。

 不意に、リリーはタグラスの胸元になにか目立つものがあるのに気がついた。気付かれないようにじっくりと観察してみる。タグラスは手で首元を仰いで、リリーの視線に気が付いてはいない。

 ――傷か。

 傷というよりは、跡。太さ的には一寸ほどで、ぱっと見なにか縄のようなものが這っていったようにも見える。首から胸、ほぼ左右対称についている跡がなんのものか、リリーは数秒経って理解した。理解して、抱いていた違和感がどうして違和感になっているのかの答えを知った気がした。リリーは咄嗟に部屋を見渡す。……時計はない。

 彼女は真実を伝えてくれた。包み隠さずに。

 でも、隠すべきところを隠していなかった。


「タグラスさん、腕時計ってされてますか?」

 タグラスがこくりと頷くのを見て「いま何時ですか?」と尋ねる。タグラスは袖を捲り、腕時計を観た。高そうな腕時計だ。しかしそれが一体いくらするものなのかということは、今のリリーにはどうでもいいことだった。露わになった手首を、リリーは視る。

「十八時ね」

「ああ、ありがとうございます。そろそろお暇しますが――あの」


 リリーは覗き込むような姿勢で身体を傾けて、タグラスの腕を見ていると分かるようにわざとらしく見る。タグラスもつられてそっちを見て、目を大きくしたあと、過剰なほど勢い良く袖を元に戻した。


「怪我を隠しているんですか」

「あはは、まあね。嫌なものを見せてしまったわ」

「だから、厚着してらっしゃるんですか?」

「ええ、まあ」


 タグラスは一切こちらに目を向けない。ただの傷を隠すにしては、過剰だろう。それもそうだ。ただの傷ではないだろうから。


「タグラスさん、お綺麗なのに可哀想に……。医者には行きましたか? そのくらいの傷なら、きちんと消毒すれば治るかもしれません」

「なんでもないわよ。ほっとけば治るから」

「ほっとけば治るんですか?」

「えっ、……傷なんてそんなもんじゃない?」


 リリーは相手にも分かるように、訝しげな表情を作る。タグラスの落ち着いていた視線が、少し揺れ動くのが分かる。

 ――リリーは誰ともでも仲良くできるとアリスが言っていた。それは天性の才能ではない。過去の失敗以来、人を見る目、疑う目というのを必要以上に重視して、リリーが生きてきたからできるようになったのだ。それは相手が自分と合うのか、そうでないのかを見極めることもできる。そうすると自分を相手に合う性格に変えることもできる。嘘と真実も大体見極められる。すると嘘をつくのもうまくなる。そうして、偽って生きてきた。

 人の二倍も三倍もそこに注力した。それだけの経験がリリーにはある。だから、リリーの中で、会議の日以来構築してきたタグラスという人物像が間違っているとは思っていない。タグラスは自尊心が人一倍高い。それ故に努力家で、短気で、高貴である。馬鹿にされることと、見下されることと、命令されることと、辱めを受けることを何よりも嫌うが、自分がそうするのは嫌いではない――。


「医者に行った方がいいですよ。何かあってからじゃ遅いですから」

「……大丈夫だって言ってるでしょ」あまりにもリリーがしつこいからか、タグラスの声が鋭くなる。「大したことはないし、ここだけだもの」

 ――タグラスはさっきの話の中で、シャーリィに酷いことを言ったと語った。その時、彼女は思ってもいなかったことを言ってしまったなどとは言わずに、まさに正直に『思っていても言ってはいけないこと』と言った。教訓として聞けば違和感はなかった。でもこれはタグラスが自分で、シャーリィに本音の悪口を言ったことが分かっていたから出た言葉ではないか。

「なんで嘘をつくんですか?」


 ――シャーリィとは合わなかったとも語った。それもそうだろう。シャーリィは自分が王家の出自であることを気にしてはいるが、気は強く、王族らしく振る舞おうとする。タグラスはそれに耐えられなかったのではないか。だからシャーリィに鋭い言葉を放った。


「は?」


 あえて子供じみた、不躾なリリーの態度に、タグラスが棘を帯びる。この口論は、リリーに流れが向いている。


「胸のところも、首のところもですよね」


その傷はおかしいのだ。タグラスが深く息を吸い込んだ。そして見下すような視線がリリーに突き刺さる。リリーは目を離さずに、まっすぐに見返した。息が詰まる。脈が早くなる。


「そういう傷って、あまり見ませんね。圧迫されたような、擦れたような」


 ついにタグラスが立ち上がる。落ち着きを払った様子で扉のほうまで歩いていって、それをおもむろに開いてみせる。


「悪いけど、もう帰ってもらえるかしら。人の傷を見て、ぐちぐちと余計なことを言う。そんなに失礼な人だとは思っていなかったわ」

「……そういう性癖なんですか?」

「はあ?」



 タグラスの素っ頓狂な声が響く。室外にも聞こえたのか、扉に前を歩いていた兵士が足を止めてこちらを覗き込んだ。それに気がついたタグラスは舌打ちをして、叩きつけるように扉を閉める。リリーに一直線に近づいてきて、その手をのばす。……が、それはリリーの肩に届く前に宙で止まる。これまで大人しく聞いていたアリスが、タグラスの手を掴んだのだ。タグラスは腕を振りほどこうとするが、少し上下に動くだけで、アリスの手は離れなかった。

 手を解くのは諦め、タグラスは鬼気迫る表情でリリーを怒鳴りつける。


「あなた、なんのつもり?」


 リリーは、自分の足が震えているのを感じていた。いくらアリスがついているとはいえ、歳上の偉い人を相手に食い下がっているのだ。相手にとっては小娘も同然のリリーに失礼な物言いをされて、平然としているはずはなかった。万が一アリスの手が離れてしまえば、ほとんど怒った状態のタグラスには、一発や二発殴られても不思議ではない。


「わたしは偏見なんてしませんから、教えてください。そうなんですか?」


 でも、震えていても、足は地を固く踏んで動かさず、目はタグラスの目を突き刺すように見る。


「なに、狂ってるの? ねえ、私の腕を掴む前にこの子をどうにかしなさいよ!」


 アリスはおそらく唖然としているが、リリーの調子を崩さないためか、何も言わなかった。


「……狂ってる。狂ってるわ」

「わたしはただ、相手が知りたいのです」


 内心の怯えを押し殺し、平静を装って核心に触れる。その“相手”という単語を聞いて、タグラスの勢いが途端に鎮まった。


「知って、どうにかするわけではないんです。ただ、タグラスさんがそれを許す相手が誰なのか、わたしは知っておかなければいけません。……信頼関係のためにも」


 詭弁だ。でもタグラスには大きな効果があるようだった。彼女の冷静さは怒りに変わって、今度は動揺に変わろうとしている。

 タグラスに、シャーリィを攫う理由はほとんどない。だが、攫う理由がある者に協力することは、その気がなくてもできる。以前、彼女は元々国衛軍の長を目指していたと聞く。だが、その座はある日突然ひょっこりと現れたある者によって奪われる。彼女の性格は、命令されることを嫌うだろう。でも今、彼女は国衛軍の副長として仕事をこなしている。彼女は暴力を振るわれることを嫌うだろう。でも彼女は暴力を振るわれ、毎晩毎晩喜んでいる。それは、それは身体中についた縄のあとが物語っている。それの全てを許される人物とは、一体誰なのか。リリーの頭には、もはや一人しか浮かんではいなかった。


「相手はアーロンさんですね」

「いい加減なことを言わないで!」

 タグラスは扉を気にし始める。向こうに聞こえるのを恐れているのだろうか。ならばと、リリーは声を張る。

「その傷は、アーロンさんにやられたんですか? タグラスさん、あなたはそれを――」

「――分かった! ……分かったから!」

 リリーの声を遮り、タグラスが声をあげる。

「……話は聞くから、他の場所にしてちょうだい」


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