第六話 .Lily
王室は城の三階にあるため、また階段を登っていく必要があった。近衛兵の仕事は立つことと歩くことが多い。だからリリーも脚の筋肉には自信があったが、今日は連続で登り降りしていることもあってさすがに厳しさを感じていた。
とはいえ、王室に行くのは前回がいつであったかも思い出せないほど久々なことで、彼女たちに会うのが楽しみだったリリーの足取りは軽い。
一階から二階へ繋がる階段を登り、踊り場に辿り着いて一息ついたとき、上から背の低いメイドが小走りで降りてきた。前を気にする余裕のなさそうなその娘に、リリーは端によけて道をゆずる。彼女は脇に食器を運ぶための盆を抱えていて、汗を流しながらリリーの横を通り抜けていく。が、数歩通り過ぎたところでリリーに気が付いて走っていた足を急に止め勢いよく振り返ると、翻ったスカートが落ち着くのを待たずにお辞儀をした。
「とと、リリー様。おはようございます」
深く頭を下げる小さなメイドの姿に、リリーの表情は綻んだ。
「おはよう、アナ」
この娘はアナ・キャロラインという。今年で十歳になったと記憶しているが、まだまだ小柄なためリリーがしゃがんでやらなければ目線が合わない。
「王室に行かれるのですか?」
「よく分かったね」
「嬉しそうだったので」
あはは、とリリーは苦笑いをする。見ているだけで分かってしまうほど昂ぶってしまっているのは少し恥ずかしい。久しぶりに、という意味もあるけれど、あんな事件があった後だからこそ、彼女たちに会って、一度落ち着きたかった。
「アナは今日も忙しそうだね」
声をかけながら懐にしまっていたハンカチで額の汗を拭ってやると、アナはわたわたと慌てる。
「あ、あ、ごめんなさい。お手を! わたくしには走り回るくらいしかできませんので」
「そんなことないって」
謙遜のできる十歳というのが果たして健全なのだろうかと、くだらないことを考えてしまう。自分に自信が持てていないだけなのかもしれないが、彼女は自分のことを誇っていいとリリーは思う。拙いところはあるけれど、アナの仕事には城中の人が助けられているし、実際、彼女の上司であるところのメイド長からは、かなり評価がよかった。それに、アナがぱたぱたと城内を走り回るその姿は、一部では癒やしの効果をもたらすとして重宝されているものだ。
可愛らしくしっかり者の彼女に心を許し、愚痴やら相談事やらを打ち明ける人も多い。そしていつの間にか城内の人間関係や噂に一番詳しいのはこの子だったりするので、将来が恐ろしかった。相談に対する受け答えも完璧と来れば、十歳と侮っては罰が当たる。
「リリー様も毎日お忙しいでしょう。おやすみなどは取られないのですか?」
ハンカチをしまいながら、リリーは肩をすくめた。
「なかなかね。わたしが休むと、他の子に示しがつかないからとか思ったり。それに休んでもすることないし、メイドさんほど忙しいわけじゃないし」
「いえいえ、わたくしの前でご謙遜なさる必要はありません。リリー様の活躍は常々聞いておりますから。この前はなんでしたっけ、現場に残された犯人の足跡と髪の毛、そして被害者の証言だけで極悪連続女性下着盗難事件を解決したそうではないですか! そしてそれが準国事隊を出し抜き、事件を解決した回数十五回記念だとか! リリー様のことを慕っている方、お城の中には結構いらっしゃいますよ!」
「なんかすごい恥ずかしいんだけど……」
「しかし、そういった優秀な方こそ、いざというときのためにしっかりと休息すべきなのです」
アナはえっへんと言わんばかりに胸を張り、人差し指を掲げた。
「上手な子だなあこの!」
リリーがわしゃわしゃと髪の毛を撫でてやると、アナはくすぐったそうに目を瞑った。
「うあー。さ、最近は休暇で他国へ旅行に行くのが流行っているらしいですよ!」
撫でられたままのアナが、思い出したようにそう言う。それを聞いて、リリーの手が反射的に止まった。少しがっかり顔のアナに、リリーは改めて聞く。
「旅行が流行っているの? 他国へ? 休暇で?」
アナがこくりと頷き、リリーの表情が少し険しくなる。
旅行へ行く人の目的というのは、その大半が別れた家族や友人に会いに行くといったようなものが多いと聞く。休暇に行くことがあるなどというのは初耳であったし、強い違和感もある。
こちら側からは、向こう側の様子を見ることはできない。つまりミカフィエルやエールがどんな無法地帯なのかもはっきりとしないのだ。そんなことはないかもしれない、けれど結局は分からない、というのが現状である。仮にアリスのような強い人を連れて行ったにしても、リリーにはわざわざ休暇に行く気にはなれなかった。
急に黙り込んだリリーに当惑してしまったのか、アナがあたふたとしながら話をつなげる。
「なんでも、ミカフィエルにの環境が優れていて、観光に行く人が多いとかなんとか……と」
リリーはアナの声にはっとして顔を上げる。アナの前で考え込む必要はない。この子は自分が聞いた役に立ちそうな情報を、教えてくれただけなのだった。アナにしても、こんな話題でリリーが引っかかると思ってはいなかっただろう。
「あー、初めて聞いたなあ」
「や、やっぱりそうですよね。わたくしも今日初めて聞いたのです。あの、国衛軍の……タグラスさんですか」
「うぇ」アナの口からその名が出たことに驚いて、リリーは思わず喉から変な声を出してしまった。タグラスといえば国衛軍副総統、いざという時は総統代理まで務めることもある、マクナイル王国で二番目に影響力を持つ国衛軍で、いわば二番目に偉い人なのだ。「アナ、タグラスさんとも喋るの?」
「あーいえいえ! たまたまですよ。今日初めてお喋りしましたので!」
「ああ……。それなら安心した」十歳でタグラスとも仲良くできるような人脈を持っていたなら、アナのことを「さん」付けで呼ばなければならないところだった。リリーはふと気になって、アナに問う。「タグラスさんってどんな感じなの? お城の人に話しかけたりするんだ」
国衛軍副総統ともなれば、リリーにとっては雲の上の存在と言っても過言ではない。目の前にいたならば萎縮して、何も話せなくなるだろう。
「優しい方でしたよ。見た目からはもっと厳格なように見えますが、物腰も柔らかいし、何よりも頭が良さそうでした。あとお胸が大きいです。そういえばタグラスさんは、昔姫様ととても親密になさっていたとか、聞いたことがありますね」
「えっ、タグラスさんとシャーリィが? まったく想像できないなあ」
まったく想像がつかないというか、接点があることさえ知らなかった。アナと話すと目を丸くしてしまうことが多い。今回も聞いた話のほとんどは、初めて耳にすることばかりだった。
アナとはその場でもう一言二言交わしてから別れた。彼女が走っていく後ろ姿を眺めて、リリーもまた階段を登っていく。二階に到達し、三階に登っていこうとしたところで、今度は背中から声をかけられる。振り返ると、近衛兵の制服を来た女の子が立っていた。その姿を見るなり、リリーは駆け寄って顔を覗き込む。今朝、あの猫の死体を発見し報告に来てくれたミアがそこにいた。顔色はまだ良くなく、憔悴した様子だ。
「今朝はその、すみませんでした」
申し訳なさそうに言う彼女に、リリーは首を横に振る。ミアは一つ歳下だが、ずいぶん幼く見えた。
「ううん、しょうがないよ。見ちゃったんだもんね」
そう言うと、彼女はもともと青かった顔を一層暗くした。しまった。思い出させてしまっただろうか。かけてあげるべき言葉を見失っておろおろとするリリーに、ミアはなにか決心したような表情で、顔を上げた。
「あの」言いにくそうに口をもごもごとさせる。リリーの顔色を伺うようでもあった。「しばらく、休養をいただくことは可能でしょうか……」
そう言われて、リリーは少し躊躇った。当然休んでほしいとは思っている。あんなものを見てしまったのだ。ただ、いまは何よりも警備を強化したいというのも事実だった。
「数日だけ、ですので……」
「えっと、アリスに言ってもらうことはできない? わたしはそういうの、決められないっていうか……」
「その」また顔を俯かせてしまう。そして言い淀むようであったが「隊長に言うのは、少し怖くて」と結んだ。
声量がみるみる小さくなっていくミアに、まったく同情しないわけではない。確かにそれはごもっともなことなのである。馴染みがなければ、アリスは常に怒っているように見えるような冷たい表情をしているし、機嫌よく微笑んでいる時などほとんど見ない。
ミアはそれきり黙り込んでしまう。リリーはどうしようもなく、その場に立ち尽くすしかなかった。ミアの気持ちも分かる、しかしこれが自分の手にあまることだということも、当然分かっている。やはりアリスに言ってもらわねば困るのだ。リリーは意を決してそれを伝えようと口を開いたところで、自分の弱さに、すぐに負けた。
「――分かった。アリスにはわたしから言っておく。言っておくから、落ち着いたら帰ってきてね」
ミアの表情が少しだけ和らぐのを見てリリーはほっとするが、自己嫌悪と罪悪感にも同時に襲われていた。アリスに自分が怒られることはきっとないだろう。結局のところわたしは、アリスのその自分に対する優しさを利用して、ミアとの衝突を避けるという小狡い方法をとったにすぎないのだ。