第四十五話 .Lily
廊下に出るとひどく静かで、歩きながらお互いの吐息が聞こえるくらいだった。ほんの少しだけ背の低いシャーリィが前を歩いて、リリーは彼女の足音に耳を澄ませた。廊下には誰もいない。静かな夜だ。静かすぎて吐き気がするくらいに。こういう日くらい、誰かが酒を飲んで大騒ぎしていてくれたらいいのに。お互いがお互いを意識しながらも、声は出さないでいた。
「……少し、寄ってかない?」
気づけばシャーリィの部屋の前に来ていた。王室ほどではないが、一人の女の子が使っている部屋には見えないほど大きな両開きの扉が備え付けられている。首を傾げながら、シャーリィは扉の取手を掴んで、無言でリリーにどうするのかと返事を待っている。リリーに断る理由はなかった。
シャーリィに続いて部屋に入る。彼女は照明を付けないまま、床に足を投げ出してベッドに座り込んだ。そして、カーテンの開いた窓の外を見ている。リリーは床で、シャーリィの正面に座った。同じように外を見る。
窓枠の向こう側に見えるのは深い空だった。大きな満月が世界を照らし、この部屋にも淡い光を届けている。照明がなくとも、暗すぎるということはない。布団の、衣の擦れる音が、耳に届く。きっとあの月の向こうには限界がないのだろう。そう思ってずっと空を見上げていると、ここが地上なのか空中なのかが曖昧になる。意識は窓枠を通り過ぎてずっと先、誰も到達したことがない宇宙の先にいる。心がこの場所から離れていけばいくほど、自分が消えてしまうような感覚に陥りそうになって、誰かに縋り付きたくなった。
ふと、額にシャーリィの人差し指が触れる。
「リリー、おでこにしわが寄ってる」
リリーは、シャーリィに触られた部分を確認するように撫でる。見下ろしてくるシャーリィの目が、心配そうに覗き込んでくる。
「まだ考えちゃって。色々なこと。お爺のことも、ターラさんに言われたことも」
ヘイリーのことも。
「そう……」シャーリィが物憂げに呟く。「……私は実際に見ていないから、なんだか実感がないの。さっきまでいた人がいなくなっただなんて言われても、分からない。誰かを失うことなんて、今までになかったから」
リリーは窓から目を離して、シャーリィの膝の上に乗った彼女の両手をぎゅっと包んだ。
「分からなくてもいいよ、シャーリィには、そんなこと。絶対に、何かを失わせたりしない」
そう言っても、シャーリィは頷かなかった。リリーに語りかけるように、遠くを見据えたような両目のまま。
「そうもいかないでしょう? 私だって知らなければいけないのよ。実感しなければいけない。きっと今後、こういうことはたくさんあるの。逃げ続けるわけにはいかないと思う」
「なんでそんな風に思うの?」
リリーの声が少し大きくなる。手を握る力も、彼女に向ける視線も強くなった。
「知らなきゃいけないとか、そういう話じゃないじゃん。この先こういうことがあるから逃げちゃいけないって? いいじゃん、その時はその時でしょ? 逃げたっていいと思うよ。誰かがいなくなったりすることに、準備なんかが必要?」
シャーリィはリリーの目を見て、口元をつらそうに歪めた。
「本当ならそうかもしれないけれど、お爺はずっと、私たちが子供の時から一緒にいて、それが明日からいないだなんて、段々実感していくのは嫌なのよ。どうせなら、目の前でそれを実感した方が、いくらか――」
「ねえ!」
シャーリィが言い切る前に、リリーは声を荒げてそれを打ち止めた。手の握る力が思わず強くなり、抑えきれない怒りをシャーリィに押し付けるように、彼女をベッドに押し倒す。ベッドがきしむ音が、暗い部屋に響いた。
「わたしの言ってること、分かんないかな……!」
死に対する恐怖、誰か、例えば大事にしているものの死に対する恐怖は、もしかすれば自分の死よりも恐ろしいものかもしれない。事実、今日目の前でお爺の死を見た時、驚愕も怯懦も押し退け、恐怖が飛び出てきた。死んだその瞬間、その人が送ってきたあらゆる時は無になり、動くこともなく、考えることもない。その虚白さが、たまらなく恐ろしい。もう自分たちと会話することもないのだ。笑い合うことも、触れ合うことも叶わない。それが確定する瞬間が恐ろしい。本当なら、シャーリィの言いたいことが分からないわけではなかった。でも、それを実際に知ってしまうと――。だからヘイリーに本当のことを言うことができなかった。だからシャーリィの言うことが理解できなかった。
「リリー……?」
「ばか!」
リリーはかっとなった感情を抑え付けられなくなる。怒りと悲しみをどう制御したらいいか分からなくなって、目を強く閉じて、シャーリィを罵った。
「考え方が浅いんだって! 何かの死を覚悟しとかなきゃいけない? 目の前で実感したい? じゃあわたしが今日お爺の死ぬところを見た時、シャーリィは横にいたかったって言ってるの? わたしが死ぬ時のことを、もう考えてて、覚悟してるって言うの?」
「ちが……そういうことじゃなくて――」
「わたしはシャーリィの死ぬ時のことを考えとかなくちゃいけないわけ? お爺のことも覚悟しとくべきだった……? わたしがそれを見て、どう思ったか……。わたしの準備不足だったって言うの? わかんないよ! シャーリィの言ってること! 何かが死ぬところなんてどんな理由があっても見なくていいんだって! なんでそんなばかなこと……言うの……っ」
声は次第に小さくなっていって、最後は音にならなかった。矢継ぎ早に出て来る言葉を言い切って目を開けると、シャーリィは誰にも見せないような泣きそうな顔でいて、リリーが叫んでいるのを見つめていた。リリーはその表情に息を呑む。ずいぶん、見ていなかった顔だ。か細い声が、リリーの耳に届く。
「……ごめんね」
震える声で、消えゆきそうな脆い声で。彼女は泣きそうになりながらも、涙を一滴も流さない。幼い頃、リリーが怒ると必ず泣いていた彼女はもういない。頼もしい一国の姫が、次の女王が、リリーの下にいた。変わっていないのは、自分だけだ。
「……ごめん、わたしも。言い過ぎた」
冷静になって考えてみると、ばかだとか、考えが浅いだとか、散々なことを言ってしまった気がする。自分がいつの間にかいる所にも、今になってはっとした。シャーリィの上に覆いかぶさっているのだ。慌ててどこうとすると、シャーリィがリリー肩を強く掴んだ。
「リリー、そのままでいて」
そのままで……。この体勢のままでいろと言うのだろうか。少し力を入れて離れてみようとしても、シャーリィが強く掴んでいて離さない。肩を掴んでいた両手は、首の後ろに回ってリリーを固定する。うろたえてシャーリィの表情を覗き見るも、さっきの泣きそうな顔から少しも変わってはいない。シャーリィに謝られて、リリーの怒りはどこかへ吹き飛んだ。知ってほしくないだけなのだ。だってシャーリィは、乱れた髪も、哀しそうな表情も、こんなにも、儚いのだから。
しばらく経ってもシャーリィは離してくれなかった。もしかして、怒っているのだろうか。しかし、表情を伺っても、そんな様子はなかった。哀しそうな表情。でも、それがさっきと違っていることに、リリーは気づいた。その瞬間、喉がつっかえて、なにか言おうとしても声が出なかった。シャーリィはリリーを上目遣いに見て、口を開く。
「ねえ、もういいと思わない?」
月に照らされたシャーリィが言う。リリーはそっと聞き返す。
「なにが?」
「もう、いいんじゃないかと思うの」
遠回しに言い淀む。そのじれったい姿に、リリーは身構える。月明かりは紅く染まった頬を照らしている。
「どうしたの?」
リリーはシャーリィに顔を近づける。ああ、この子は――。この子のなんて愛おしいこと。
シャーリィ、かわいい。
シャーリィはリリーを見た。目の奥の色さえ見える距離で、視線がぶつかる。吐息が頬に触れる瞬間。リリーが唾をごくりと飲み込むと、シャーリィが沈黙を破った。
「もう、キスだけじゃなくてもいいと思わない?」
ひどく弱々しい声で囁かれて、理性の飛ぶ音がした。全速力で走った時のように、鼓動が早く、高くなる。血が一瞬で体中を駆け巡る感じがして、視界が夢の中のようにぼやける。彼女はそう言ったあと、リリーをじっと見つめた。リリーはシャーリィを見つめるというよりも、固まって、シャーリィに視線を置いたまま動けなくなった。目の前には、気高きお姫様であり、一介の女の子である少女がいる。その身体はあまりにも小さく、華奢で、小ぶりな顔も、膨らみの少ない胸も、くびれも儚くて、壊れてしまいそうだった。硝子細工のように繊細そうなその身体に、リリーは間違いなく、欲情していた。それこそ、壊れてしまいそうなほど。鼓動に合わせて、身体が小さく揺れるのが分かる。するとシャーリィが、いつもキスする時みたいに、くすりと笑う。
「リリーの心臓の音、聞こえちゃってるよ」
シャーリィがくすぐったそうに笑う。蝶が踊るようなその可愛らしい姿と声に、リリーはもう耐えられなくなった。
「シャーリィ、かわいい」
「へ?」
少女は目を見開いて、頬を紅く染める。
「かわいい」
喉から出てくる声のほとんどが吐息だった。急くように、シャーリィが着るワンピースのようなドレスの裾に手を差し入れて、伸びをするみたいに、シャーリィの頭のほうに腕を伸ばす。シャーリィの服はリリーの運ぶ腕に合わせて音を立てて捲れていって、最後にはシャーリィのまっしろな身躯を露わにした。きめ細かい絹のような輝かしい肌が、月光に曝されて淡く照る。扇情的で、美しくて、愛おしい。脇のほうから腰へ向けて指をなぞらせると、シャーリィはくすぐったそうに身を捩らせた。
「かわいい、シャーリィ。好き」
「やん、リリー……」
シャーリィが甘えた声をだす。頬を染め、少し冗談めかして笑いながらも、その表情はとろけて、リリーの動きに抵抗しない。その愛くるしさは、どんな理性をも壊してしまうほどで、いつもしているキスよりも、ずっと汚れたキスをしたくなる。いつもよりも深い。いつもよりももっと縋ったキスを。
ゆっくりと顔を近づけていく。いつも目を瞑るのはリリーのほうなのに、今日はシャーリィだった。
月光だけが頼りの世界で、彼女に縋り付こうとあがく。きっと最後にはこうなる運命だったのだと、そう感じていた。いままで我慢してきた意味はなかった。初めから結ばれる事が決まっていたのだ。目を瞑ってリリーのキスを待つ彼女を見て、そう思った。シャーリィの、花のような、愛苦しい顔を見ながら、手は彼女の身体を探る。どんな洗練された絹織物よりも柔らかく滑らかなシャーリィの肌を手のひらでなぞると、彼女は身悶えるように、身体を小さく跳ねさせる。さっきまでの余裕そうな微笑みは、もう消えていた。ただリリーのなすがままにされることを、染めた頬が覚悟している。
ああ――。
鼓動は速いままで、息が切れそうなほどだった。
シャーリィに口づけをするために、抱き寄せようとする。
その時だった。
うたかたの夢を叩き割るかのように、硬貨を落としたときのようなほんの小さな音が部屋に響いた。シャーリィも気付かないような、本当に些細な音だった。そのまま彼女にキスをしにいったところで、差し障りのないような音だったのだ。けれど、リリーの動きはそれで止まって、崩れていた心のなかの何かが、また組み立てられていくような気がした。
音の正体が何だったかは、すぐにわかった。制服の胸についている勲章が立てたのだ。制服に付けられている二つの勲章が、お互いにぶつかって音を立てたのだろう。
いつも、この勲章と共にある。一つは、副隊長に就任した時のもの。一つは、事件解決に貢献し、準国事隊から付与されたもの。今日も当然、ずっとこれを付けていたのだ。会議中も、お爺が死んだときも、ヘイリーに嘘をついたときも、それで泣いたときも、部屋で突っ伏していたときも、ヘレナの胸で涙を流したときも、シャーリィを押し倒して、服を脱がせ、キスをしようとしていた今も。制服を着たまま、勲章を身に着けたまま、自分が近衛兵であることを忘れ――姫との一線を越えようとしている。
リリーは、シャーリィのくちびるへ向かおうとしていた自分を止める。ふっと息を吐いて、少しだけ上に、ゆっくりと近づいて、額にキスをした。
離れると、シャーリィが目を開けた。切なそうな顔で、首を傾げてリリーを見る。息が詰まる。彼女の頭をそっと撫でベッドから降りた。シャーリィは掛ける言葉を探すような顔をしながら、リリーを見上げる。リリーはただ一言「おやすみ」と言って、部屋を後にした。




