第四十四話 .Lily
部屋に一人で戻っても、まだぐずぐずとしていた。ベッドに突っ伏し、今日一日の全てが脳裡から離れずに渦巻いている。どうすべきだったのだろうという問いは解けず、きっとまた同じことを繰り返してしまうのではないかと思うと自分が恐ろしい。いま最も信用できないのは、自分なのだ。リリー、どうかもっと賢くなって。
こつん、こつんと部屋の扉が叩かれる。控えめなノックは部屋に暫くの間静寂をもたらし、もう一度叩かれる。もしかして、ヘイリーが嘘に気づいたのではないだろうか? お爺が化けて出たのかもしれない。こわい、もうなにもかも――。夢であってと、布団を頭から被る。
「リリー? いないの?」
扉の向こうから呼びかけられ、リリーは布団を剥ぐ。聞こえた声は、ヘレナのものだった。彼女の姿を思い出す。背が高くて、細身で、なのに柔らかそうで、優しいあの表情――。堪らなくなって、扉まで駆ける。扉を開けて、そこにいるヘレナにぎゅっと抱きつく。服の匂いを嗅いで、彼女の胸に泣きつく。
「あらら、リリー……」
「ヘレナさん……わたし、わたしが」
「いいのよ、つらかったね」
頭が撫でられると、胸の奥からじわりと感情が溢れてきて、どう踏ん張っても涙が流れるのが止まらなくなってしまう。ヘレナは事情を知っているのだろう。それが分かるほど、優しい愛撫だった。真っ暗に思えた世界に、まだ優しさも、拠り所も残っている。それが分かって、少し安心できた。
「部屋でみんな心配してるけど、来る? それとも今日はもう寝たい? もし一人じゃ不安なら、寝付くまで一緒にいてあげるよ」
リリーは首を横に振って「王室に行きます」と言った。ヘレナが横にいたら憂慮も和らいで寝られるだろうけど、ターラやシャーリィの顔が見たかった。
ヘレナに手を握られ、廊下を歩いて行く。人は、安心した時に涙が出るらしい。溢れてくる涙を拭いても無意味だった。洟をすすったり、目元を拭ったりしていると、その様子を見たすれ違う知り合いは心配そうに声をかけてきてくれる。ありがたかったけれど、それがかえって涙を誘う。
「リリーは顔が広いのね。そしてみんなあなたのことを愛してる」
「…………」
「一人じゃないからね」
むしろ壊れてしまいそうなほどの暖かさに触れている。自分では自分のことを嫌いになりそうなのに、みんなは愛してくれていると言う。お爺を自殺に追い込んだのはまさにわたしで、ヘイリーに嘘をついたのもわたしで、浜辺でシャーリィを泣かせたのもわたしで、幼いころに友人に嫌われるようなことをしたのもわたしなのだ。そんな自分をどう愛せるというのだろう。教えてくれたらいいのに。そう思ってヘレナを見ると、彼女はハンカチを取り出し、リリーの顔を優しく拭く。いつの間にか、もう王室の前に来ていた。
「ヘレナさん、わたし顔変になってないかな」
「リリーはいつもかわいいわよ。さ、みんな待ってる」
扉を開けると、最初はいつものテーブルの上にカップを置くサラの姿が目に入った。その次に、扉が開いたことに気がついたターラとシャーリィと目が合う。ふたりとも、やはり親子だ。さっきまで泣いていたことが分かるリリーを見て、似たように眉を歪めた。哀しそうに。でもやっぱりターラは大人なので、すぐに微笑んで席を座ることを促してくれる。その通りに座ろうと思ってテーブルの方へ行こうとすると、立ち上がって近づいてきたターラに抱きしめられた。優しいぬくもりは居心地がよかったけれど、また泣いてしまいそうになるからやめてほしかった。椅子に座らされ、既に用意されていたココアをサラに勧められたので口に含む。サラの淹れたココアは、ヘレナやターラの抱擁と同じくらいいい匂いで、あたたかかった。
「今日はおつかれさま」
ターラが言う。
「……いえ」
もっと言うべき言葉はあっただろうけれど、出てきた返事は少なかった。室内は夜の雰囲気で、白い照明が部屋を照らすばかり。昼間のような城下や城内の活気はまったく無く、しんと鎮まっている。窓の向こうにはひたすら暗い空。星は見えない。今夜は月が明るすぎるのだ。静かなのはこの部屋もまたそうだ。せっかく呼んでもらったのに、かえって雰囲気を悪くしている気がする。
「……嫌ね」
シャーリィが紅茶をテーブルに置いて、不意に呟いた。その声には伺い知れぬほどの苛立ちが含まれている。
「え?」
彼女はリリーをじっと見る。その目リリーのことを儚むようには薄く開かれている。
「リリーは国の裏切り者を指摘しただけじゃない。それはいいことなのに、むしろリリーは嫌な目にあってる。そうであるべきではないのに」
いつもよりずっと冷たい声だ。シャーリィは世を蔑むように吐き出す。リリーはつとめて明るい声を出そうとする。
「……シャーリィが気に病むことじゃないよ。わたしが勝手に見送りに行って、そこで起こったことなんだから。自業自得だよ」
シャーリィは怒ったように視線を外して、窓の外を見た。言い返されることはなく、また王室に静寂が降りる。しばらくの後、ターラが改まってリリーに向き直った。
「リリー、こんな時に言っていいのか、こんな時だから言っていいのか分からないけれど。あなたはまだ十七歳で、責任感とか、この世の悪い部分とか、そんなに多くのことを背負ったり、考えたりするような歳ではないの。本当なら、他の子と遊んだり、恋の話に花を咲かせたりしているはずの歳。リリーは頭が良すぎるし、責任感が強すぎると思う。考えることが多すぎると思う。リリー、これはけして、あなたを否定したいわけじゃないのだけれど――近衛兵を、やめる気はない?」
キーンと耳鳴りが通り過ぎる。何を言われた? 慌てて何かを言おうとするも、うまく声が出ない。
「今日のこともそうだけど、死体を見たり、ずっと一緒にいた人の罪を見出したり、その人の死を見たり。あなたが近衛兵を続ける限り、またそういうことはあるかもしれない。わたしは、あなたにもっと幸せになってもらいたい。もちろん、近衛兵をやめたあとの仕事は見つけてあげる。王室でメイドをやるのもいい、リリーは本が好きだから、司書さんとして城内図書館で働くのだって」
遠くの方で、サラが息を呑むのが分かった。サラでさえ驚いているのに、言われている自分自身が驚かないことがあろうか。
「まっ、待ってください……。急にそんなこと言われても」
ターラが目を伏せる。
「確かに唐突に聞こえるかもしれないけれど、これはずっと思ってきたことなの」
「じゃあ、近衛兵大会とか、色々……、応援してくれてたのは、嘘なんですか」
声が震える。ターラが顔を上げ、リリーに縋るような顔を見せる。
「そんなわけないじゃない! リリーがやるというのなら、当然応援するわよ。でもね、あなたが傷ついていくのを見るのは嫌なの。今回のことだけじゃない、嫌なことを思い出させるようで申し訳ないけれど、更衣室の件だってリリーはものすごい衝撃を受けたと思うの。さっきも言ったように、リリーを否定する気は一切ない。でも、考えておいて。あなたが苦しむのは、見ていられないの」
頭が混乱している。そんな風に思われていたのか、と。ただ、想像したことがないわけではなかった。わたしが近衛兵を続けることに疑問を抱いているのは、シャーリィでさえそうだから。自分自身の中にさえ葛藤がある。シャーリィの横にいるためにと近衛兵になり、隊長を目指しているけれど、それは近衛兵じゃなくてもできることであり、むしろ、そうでないほうが一緒にいられる時間は多くなる。隊長という存在に自分がなることにも不安がある。チェリや、アリスのような存在こそが隊長であるべきで、自分のような人前に立つことが得意でない人間はせいぜい中間管理職がお似合いなのだ。ターラの言ったことも思い出す。このまま続けていったら、また同じような目に合うと……。今日の失態はなんだっただろう、恥ずかしくて思い出すこともしたくはない。隊長になるのだ、シャーリィを衞るのだと豪語しておきながら、一日の半分を号泣して過ごしていたのだ。近衛兵が? お笑い者ではないか。ふっと失笑が漏れる。辞めた方がいいかもしれない。そのほうが、よっぽど――。
「リリー、よく考えて決めて。返事はいつでもいいから。今日はもう休みましょう」
ターラの声で、すっと現実に引き戻される。
「ごめんなさいね、辛い時にする話がこんなで。おやすみなさい、リリー」
「おやすみ」
ヘレナが頬にキスをする。ターラとヘレナの二人は王室から去っていって、リリーとシャーリィだけが残った。シャーリィはいささか機嫌が悪そうに見える。
「私たちも行きましょ」シャーリィが席を立ち、リリーの手を握って立たせる。「サラ、カップを片付けるのは明日でいいわ。あなたもおやすみ」
サラは黙って頭を下げ、部屋から出るリリーたちを見送った。




