第四十三話 .Lily
アリスに手を引っ張られ、お爺の姿が見えないところまで連れて行かれた。城の影でベンチに座らされ、手をぐっと握られている。リリーの前でかがみ込んで、何か声をかけようとアリスが必死に言葉を探しているのがわかった。リリーはアリスの頭を無感情に眺めて、やがて彼女の手をそっとどけた。アリスが顔を上げ、苦しそうな表情をリリーに見せる。リリーは立ち上がり、出来る限り微笑もうとした。しかし固く結ばれた唇が、どうも好きに動いてくれない。
「ごめん、大丈夫だから、一人にして」
「こういう時は、一人になっちゃいけない」
「……大丈夫だから」
アリスの元を離れ、あてもなく歩き始める。鮮明に思い出される。渦巻くように、何度も頭の中に思い起こされる。ナイフを握り、あっと叫ぶ間もなく深く首を切り裂いたお爺の姿が。そのまま支える物もなく後ろに倒れ、果物が弾けるような音がして、それから一切動かなくなったお爺の姿が、脳裏に。死体を見たのはこの前が初めてだった。猫の死体。首が切り取られ、残酷にもその胴体だけが血生臭く横たわっていた。その光景は吐き気を催すほど残酷でおぞましいものだった。けれど、どんなに惨たらしい死体であろうと、知っている人の死はそれ以上のものらしい。ましてや、綺麗な死ではないのだ。存在していたものが一瞬でなくなるのを見る感覚が、こんなに苦しいものだとは、リリーは知ってはいなかった。その苦しさは胸を締め付けるようで、やがて息苦しささえ伴う。
「リリーさん?」
その時後ろから話しかけてきたのは、ヘイリーだった。リリーははっとして、声の方を見る。いつの間にか城の中庭にきていたらしい。彼はどうやら城に遊びに来ていた見知らぬ女の子と遊んでいたようで、その女の子の手には、白詰草の冠が握られていた。シャーリィがあれを頭に乗せ、リリーがその前にかしづき、従者と姫の真似事をしていたことを、ふと思い出した。その横で微笑みながらそれを見ていたお爺の姿も……。リリーはぐっと唇を噛み、視線を女の子の手から逸らす。やがてその子は迎えに来た母に連れられ、帰っていった。ヘイリーにとっては恐らく、理由の分からない沈黙が流れた。
「……リリーさん、顔色が優れませんね。だいじょうぶですか?」
「ああ……ごめん。大丈夫。今の子、知らない子だよね」
「あ、はい。リリーさん達が会議に行っている間、僕は何もできませんから。ここで本を読んでいたら、成り行きで遊んであげることになったんです」
「ヘイリーくんがいなきゃ、うまくいかなかったよ」
ぎこちなく微笑んで言うと、ヘイリーの目が大きく見開く。
「じゃあ、今日はうまくいったんですね!」
「うん、うまく……」
「ならよかったです! 猫を殺すなんて、許せないことですから」
ぱあっと顔を輝かせて、彼は成功を祝ってくれる。
そう、うまくいったのだろう。お爺がどうなったのであっても、猫事件の犯人が判明し、一件の落着を得たのだから。多数の猫を殺し、城下や王室に置き去りにし、国民の不安を煽ろうとした、到底許すことのできない犯人が捕まったのだから、うまくいったのだ。
「……それで、あの」
喜んでいた表情から一転して、ヘイリーがなにやら言いづらそうにしている。まるで初めて会った時のように、もじもじと困ったような顔でいる。それを見てリリーは、ぐっと息をつまらせた。
「ずっと、リリーさんの邪魔をしてはいけないと思って黙っていたんですけど」
ヘイリーが言い始めた瞬間、リリーの胸にくすぶっていた不快感の正体が何であるかに気がついた。じわじわと胸中を侵食し、身体中の居心地を悪くするそれは、ヘイリーに対する、後ろめたさだった。そしてそれ以上の、嫌な予感。
「ミカフィエルに行ったんですよね」
やはりそうだ。彼が何を言おうとしているのかが分かって、リリーは走って逃げたくなる衝動に駆られる。聞けば答えなければいけない。だが身体は動かなかった。眠っている時のように、言うことを聞かないのだ。
「僕の、猫のことは何か分かりましたか? 多分、おじいちゃんがいたと思うんですけど――リリーさん?」
「え、あ、ヘイリーくんの飼ってた猫?」
「はい」
「それなら……」
――待て。言いかけて口を噤む。悪魔かなにかに囚われたような感覚がした。ぞくぞくとした感覚が背筋を駆け巡り、汗が伝っていく。暑いのか、寒いのか分からない。でも悪寒が走るのは分かった。不快感、嫌な予感、そして、自分に対する嫌悪感。それらが混ざり合って、リリーの中をざわざわと動き回る。
――わたしはいま、なにを言おうとした?
もしかして、いま自分は『その子なら無事だった』と、そう言おうとしたのではないか。そんな、そんなくだらない嘘をついたところで、なんになるというのか。彼は、ここでは喜ぶかもしれないけれど、いずれ本当の事を知るだろう。その時彼はどうする? 崩れ落ちるだろうか、リリーに殴り掛かるだろうか。どちらにしても、リリーはそれをどうすることもできない。明白だ。ここで、彼にぬか喜びをさせる意味はまるでないのだ。騙そうと思えば騙せるだろう。彼の目を見れば分かる。嘘を知らない、裏切りを知らない純粋無垢な、他の天使たちと同じような綺麗すぎる瞳だ。
「その子なら無事だったよ」
だが結局、リリーは悪魔を信じてしまった。彼の純粋な瞳に濁った嘘をついたのだ。それはいずればれる、脆弱で薄汚い嘘だった。言ってすぐに恐ろしいばかりの後悔が襲ってきて、けれどもはや言ってしまったのだから、やはりそうではなかったと言い直すこともできはしない。現に目の前のヘイリーは、目を大きく開いて喜んでいる。この笑顔にどう言い直せと? それとも、この笑顔が見たかったのか? いや。
そう。保身なのだ。保身のための嘘。結局のところ、リリーは自分の口から彼に真実を伝えることを恐れたのだ。だって――だって、しょうがないではないか。さっき見たばかりなのだから。知っているものの死を。情けないほどに儚い、想像もしていなかった死を! 自らの目で見てしまったのだから。彼に……ヘイリーに、その空虚な感情を、わざわざ教えることなどできるだろうか?
「よかった……。帰れる日が楽しみです」
「うん、会える日までがんばろう」
浅はかな嘘で言い繕って、自分はいまどこに立っているのかさえわからなくなる。目の前で過ぎていくことは、夢を見ている時のような客観的な視線に似ている。即席の嘘でヘイリーを安心させて、一体何になったというのだろう。どうなるというのだろう。優しい嘘? いや、これはそんな素晴らしいものではない。もっと薄汚い恣意的な恐ろしい嘘だ。
しかし、それが分かっているからといって、夢であって欲しい目の前の現実が終わることはなかった。
「ぼく、がんばりますね。リリーさん、大変な中ありがとうございました。では、また」
ヘイリーが背を向けて去っていく。
違う、本当は――。
その背中が見えなくなってようやく、掠れた声が出てきた。
「その子はもう、死んでる……」
これもまたそうなのだろう。感情的になるべきではなく、理性的に、嘘をついたところでどうしようもないのだと判断して、ヘイリーにきちんと真実を伝えればよかった。お爺が死ぬところを見て、どれだけ自分の心がえぐられていたとしても、感情的になってしまう部分ではないはずだった。何度も、何度も何度も繰り返しそう言っているのに、どうしてうまくやれないのだろう。友人を失った時から、分かっているはずなのに。それなのに、罪悪感からの涙が止まらなかった。




