第四十二話 .Lily
「王女様、王妃様、姫様の予定を把握し、管理する。これはたった一人、城で最も信頼のおける者に託された仕事でした。執事長の、テッドさんだけに託された、大事な仕事です。これはその予定帳です。ご自身の予定は何一つない、けれどぎっしりと細かく王様方の予定が記入されている」
「まさか!」テッドが立ち上がり机を叩いた。横のヘレナがびくりと身体を震わせる。「それを理由に私を犯人にするつもりじゃあるまいな! それだけで疑われるのでは溜まったものじゃない! 私は仕事をしているのだ! 誰にも任されない、大事な仕事だ! 犯人が見つからなかったのが運ではないとどうして言い切れる!」
唾を飛ばしながら、リリーを怒鳴りつける。それはリリーの見慣れた、人のために怒るお爺の姿ではなく、相手を憎むような怒りを撒き散らす、歪んだ裏切り者の姿だった。
「猫の死体を持ち、警備がいる城内を、小さくはない荷物を持って歩き、中に誰かがいるかもしれない王室に入って、猫の死体を放置できる運ですか」
お爺は一度黙り込んだが、また机を大きく叩いた。何度も叩きながら、声を大きくする。
「私は女王様がたの予定を他の執事にも伝えている! 他の執事という可能性もあるし、誰かが漏らしていた可能性だってある! そうだろう!」
元々、王室で行われた犯行においては、彼以外にできる人はいない。それは分かっていたし、揺らぎようがなかったけれど、今の発言で、それがもっと確固としたものになった。
「他の執事にも伝えている……間違いないですか」
醜い、耐えられない。リリーは相手を糾弾する立場にありながら、唇を噛んで俯くのを抑えられなかった。彼にどんな顔を向ければいいのだろう。幼い頃からずっと、色々なことを教わった。勉学だけではない、遊びも、生き方も、悩んだ時は相談にも乗ってくれたことがあった。柔和な笑みを浮かべながら。
これらの事件の目的は、マクナイル国民の不安や恐怖を冗長させるという部分にある。テッドは城下に猫の死体が捨てられている時、わざわざ下まで降りてきて、リリーらが決めた「公表しない」ということについて苦言を呈した。それは当たり前の疑問だったかもしれないが、犯行の目的を考えると無視はできない。公表されずに隠されるということは、猫を殺し、晒した意味が無くなるのだ。そう考えると、もしあそこで事件を一般に公表し、国民の多くを不安に陥れていたら、王室での犯行は無かったかもしれない。
「確認すれば分かることです。呼びましょうか」
今呼ぼうと思えば難なく呼ぶことができるだろう。扉の前にいるであろう近衛兵に、誰か――副執事長なんかがいいだろう――を呼んできてもらって、部屋からは誰も出ることがないまま確認することができる。しかし、この提案は本当にそうしようというものではなかった。要は、呼んでみろと言えば嘘がばれ、呼ぶなと言えば何故呼べないのかとなる提案なのだ。だから彼は何も言えない。
心臓の辺りがぐっと締め付けられるような痛みを感じていた。それが表情に出るのを隠すために、リリーは机の木目を見ている。誰かが息を吐くのが分かった。事件解決に安堵してのため息だろう。終わりだ。そんな雰囲気が次第に出てくるものの、誰も席を立とうとしなかった。リリーが一切俯いたまま一切動かないからだろう。解決の、いわば立役者となったのだから、もっと堂々とすべきなのだ。リリーもそれは分かっている。しかしこれから自分の恩師が独房に詰められ、今までよりもずっと陳腐な食事をし、来る日も来る日も準国事隊やら国衛軍やらの尋問に追われることになる。その姿が鮮明に想像できる。
感情的になってはいけない。頭の中の自分と、過去の自分が、ここに立っている自分に大声で叫び続けている。でも、結局自分は弱かった。リリーはぐっと顔を上げ、震える声でテッドに言葉をぶつける。
「七年前から計画は動いていました。三つの国を巻き込んだ大きな計画です。あなたは、一体どれだけの信仰心を持っていたのですか。あなたは一体いつからエール教徒だったんです?」
二人の友人と喧嘩別れし、悲しみとも違うような孤独にあったリリーに、庭の白詰草を摘んできて冠を作ってみせたのは誰だっただろう。シャーリィと喧嘩をして、ターラやヘレナにも迷惑をかけたとき、間を取り持ってくれたのは? 計算ができるのは誰のおかげで、多くの童話を知っているのは誰のおかげで、子供の頃退屈することがなかったのは誰のおかげだっただろうか。
あなただ。
「七年もの間、わたしたちを騙し続けていたんですか。わたしも、シャーリィも、ターラさんやヘレナさんだって! だって、お爺だって、いつも……楽しそうに笑って……それ、それも嘘だった……?」
聞かなければ、きっと真相は知らないままなのだろう。傷つくことは分かっているのに、わざわざ聞いてしまうのは、なんといったらいいだろう。理にかなっていない。
テッドの口から出てきたのは、予想どおりの言葉だった。
「そうだ」
予想どおりなのだ。なのに気が狂いそうだった。彼の声は何の感情も有さず、表情も何もなかった。
「この計画のためだ。王女の近くで信頼を勝ち取るためだけだ。お前や、お前がいたのは、障害のようなことでしかない。いなければ、もっと簡単に計画の日を迎えることができたというのに……」
「それ以上はやめて!」
ターラが声を荒げる。テッドが「お前」と言った時、視線を受けたのは他でもないリリーとシャーリィだったのだ。リリーはもはや顔を上げられず、シャーリィはじっとテッドのことを睨みつけていた。その目には涙が浮かんでいる。
「エール教徒とミカフィエル教徒が“迫害”されて、私や妻と子は、ミカフィエル教徒や他の知り合いと別れざるを得なくなった! 妻も子供も泣いていたよ、それはそうだ。あまりにも突然の別れだったからな。二度と会えないかもしれない。特にエール教徒は、マクナイルから最も遠いところに追いやられた。この国は、後のことなど考えずに……個人のことも無視して、誰かを犠牲にして平和を守った気でいる最悪の国家だ! 実際にミカフィエルはひどい有様じゃないか! 原因は他でもないこの国なのに、助けようだのと抜かせば綺麗だが、自らが溝に落とした犬に、手を差し伸べるようなものだろう! 貴様らが! 貴様らが笑うのが憎かった……何かを教えた時に礼を言ってくるのが気持ち悪かった……貴様らに囲まれて過ごす七年間、私は吐き気をこらえて過ごしていたのだ……」
力尽きたように、彼は椅子にどさりと座る。リリーは唇を噛んで、国衛軍の二人を見る。それではっとしたように、彼らはその場でテッドを取り押さえた。
いつの間にか雲は減り、青空がところどころ覗いていた。じめり気のあった空気が、からっとしたそれに変わっていく。
猫事件の根本的な解決には至っていないが、今日の会議は一旦解散とされた。全員が解散したあと、リリーとアリスは、国衛軍の二人がテッドを連れて行くのを見送りに来ていた。見送りといっても、何か声を掛け合うわけではない。先程より落ち着いている。どちらかといえば、月が沈むのを見るような自然な気持ちだろう。
テッドは、アーロンとタグラスの間で項垂れ、とぼとぼと歩いて行く。これで彼を見るのは最後になるだろう。取り調べでは、どうか正直にすべてを話して欲しい。見えなくなるまでそこにいるつもりだったけれど、アリスがリリーの肩を叩いて、城へ入ることを促した。少し名残り惜しくはあったもののここでわたしが突っ立っていても何も変わることはないだろう。やらなければならないことや、考えなければならないことはまだたくさんあるのだ。リリーはスカートを翻し、彼に背を向ける。今生の別れとなるだろうか。多分そのほうがいいだろう。しかし数歩歩いて、リリーはまた振り向いてしまった。それに気がついたアリスが、仕方がないといった感じで立ち止まるのが分かる。
……違和感を覚えたのはその時だった。城下へ下る階段の手前、お爺の左手が妙な動きをしていることに気がついたのだ。最初は胸を六回叩く――エール教徒のよくやる――あの動作かと思ったが、次の瞬間、彼の手に煌めく何かを見た。
「あ――」
声を上げ、気が付いた時には全てが終わっていた。赤い飛沫が上がり、地面をまだらに染める。大きなそれはぷつりと糸が切れたかのように大きな音を立てて崩れ去った。リリーは目を見開いて、呆然と立ち尽くす。何が起こったのか分からなかった。一歩踏み出し、はっとする。はっとして駆け出した。それと同時に地面を濡らす紅の面積が広がっていく。足元で液体の弾ける音がして、顔を背けたままそこを見ると、足が血を踏んでいた。ぴくりとも動かなくなった身体の横に、鮮血に染まったナイフが落ちている。目は生きているかのように見開いたまま、マクナイルの空を睨みつけている。口はまるで恨み節を吐く時のように開いている。
お爺は、そう――自分が猫にしたように――ナイフで、首を切ったのだ。




