.Lila 4
楓が帰ってきた事に気がついて、コンロの火を止めた。お玉を手に持ったまま、彼の部屋へ向かう。いつもなら最初に台所に入ってきて、その日の献立を確認するのだが、今日はそうではなかった。もしかしたら、今日たまたま留守番を任されて迎えに行けなかった私のことを怒っているのだろうか。なんだかんだ言いながら、一緒に帰りたいのだ。そう深く考えもせずに、わたしは楓の部屋の扉を開いた。
「楓? どうしたの、ご飯できるよ」
部屋は暗かった。彼は作業服を脱ぎちらして、ベッドに突っ伏していた。外の虫の鳴き声がちりちりと聞こえてくるほど部屋の中は静寂で、時計の針が鳴っていた。薄暗い部屋の中に、楓の大きな背中の影がある。返事は遅かった。
「……今日はいらない」
声は少しかすれていて、少し乱暴だった。なにかあったのだ。けれどそれがなにかは分からない。わたしが迎えに行かなかったことを拗ねているにしては、おおげさだ。楓の背中に、できるだけ柔らかい声で問いかける。
「どうして? なにかあったなら、わたし聞くよ?」
「お前には関係ないから」
帰ってきたのはたった一言だけだった。突き放すような、苛々とした声色。彼はそもそもぶっきらぼうな性格をしているけれど、こんな風に怒ることは今までなかった。誠実で、優しい。自分の言葉が相手にどんな影響を与えるのかに敏感な人だ。だからこそ、わたしの不安に大きく引っかかった。
近づいていって、背中に手を置く。
「関係ないなんてことないでしょ。楓のためにご飯作って待ってたんだもの。いらない理由を教えてくれなきゃ、納得できない」
わたしが俯いたままの楓の耳元でそう言うと、楓はたちまち力任せに起き上がってわたしの両腕を強く掴んだ。突然のことに呼吸が止まって、思わず手に持ったままだったお玉を床に落としてしまう。ぐわんという甲高い金属音が部屋に響いた。日が沈んで藍色に染まった部屋で、彼の表情はうまく伺えなかった。その上、彼は舌を向いていて、わたしの目を見ようとはしない。
「仕事で、仕事で失敗しただけだ!」
耳に残響するくらいの大声で怒鳴って、楓はわたしの腕を離した。動けなくなってしまったわたしは、ただそっぽを向いてベッドにまた横になる楓の姿を見つめていた。
「放っておいてくれ……」
虫の羽音ほどの声で言って、そこからなにも言わなくなる。仕事で失敗することが、人にとって、楓にとって、そんな気を荒げることなのかどうかは、きちんと職についたことのないわたしには分かりようもなかった。彼の責任感の強さは知っている。その失敗がもし彼にとって小さなことであったとしても、彼は……。
どうすべきだろうか。わたしは言われた通り、彼を一人にしておくべきかもしれない。
「なんで――」なにもできずに立ち尽くしているわたしが秒針の音を何度も聞いた時、楓がぼそっと呟いた。「なんで今日は迎えに来なかったんだ。そのせいで、道がすごく長かった。莉々」
震えた声に、鼻をすする音が混じった、それに、わたしは彼に、一層の愛しさを感じた。彼は真面目で、几帳面で、仕事熱心で責任感が強くて、人一倍の努力家で、だから、普段はそんなに失敗しないのだろう。けれど、長所は裏目に出るとすぐに牙を向く。たまたまそうした失敗があったその日に迎えに行けなかったのだとしたら、それは恋人としての私の大きな失敗だ。
「楓、君のことをここで待ってた」
彼は私の目を見ようとはしない。
「楓がつらい時に限って一緒に帰ってあげられなかったのはわたしにもつらいことなんだよ。勝手だけどね。……でも、家で待ってた。あなたの顔を見るために、話を聞くために、ご飯を食べてもらうためにね。楓が安心できる場所であるように、わたしは待ってたんだよ。一緒に帰れなかったけど、もうわたしに会えたじゃない。ね、好きにしていいんだよ」
楓の手を引っ張って、わたしの頬に触れさせる。彼は唇を噛み、小さく頷いた。……不器用な子どものような人だと笑いそうになると、ふと彼に抱き寄せられる。あっという間に、力の弱いわたしは為す術もなく力強い抱擁に包まれ、抱きつかれたところが少し痛かった。途端に、言い知れない、知りたくもない切ない感情が芽生えてきて、胸が騒いで落ち着かなくなる。しかしその感情は、心地の良い抱擁に打ち消され、わたしはそれに従った。
いつの間にか唇が触れ合っていて、いつの間にか禁忌を犯していた。
下の世界と聖域が繋がってしまった日。
ひどく静かな夜だった。




