.Lila 3
テレビを眺めている。夕方六時の報道番組が、地域の幼稚園で行われた行事を楽しそうに紹介したあと、表情をがらっと変えて、国内で起こった様々な事件を、神妙な声で伝える。最近は専らバラバラ殺人事件を追っていて、そのついでに、強盗や海外で起こった事件を伝えていた。表情こそは深刻だったが、そこに驚きの声はなく、まるで当たり前のことのように伝えたあと、さも自分のことであるかのような声色で、コメンテーターと呼ばれる人や、専門家たちと犯人の精神状態やら逃走経路やらを話し合う。やがてそれも終わり、サッカーのハイライトが映し出されたところで、わたしは画面右上の時間を見た。
「あ、いけない」呟く。「お母さん、楓迎えに行ってきます」
台所から顔を出したお母さんが「気をつけてね」とわたしを見送る。靴を履いて外に出て、戸を閉め、街灯しかない道を歩き始めた。
――聖域から飛び降り、下の世界に来てから早くも三年という月日が過ぎた。楓の家の人はみな、どこから来たかも分からないわたしに良くしてくれて、わたしがここに慣れるのには、あまり時間がかからなかった。聖域との生活の差も、大きくはなかった。文化の違いに戸惑うことは多かったが、不思議と似通っている部分が多く、生活に支障は起きなかったと言っていいと思う。
大きく違うところと言えば。
わたしは後方を一度見てから、長い道を歩く行為に戻る。
「明日は我が身」と、楓の祖母はよく言う。そう、聖域と著しく違う点と言えば、この世界には無視できないほど犯罪が多い。さっきまで見ていた報道番組もそうだ、毎日やっていても報道する内容が尽きることはない。朝と夕方に来る新聞もそう、一日に二回も伝えることがある。その全てが犯罪に関する事というわけではないが、それでも圧倒的な数の、人間の起こした悪事が伝えられてくる。毎日毎日、腐って捨ててしまうほど、それはもはや当たり前のことで、逆に犯罪のなかった日があったなら、人々は「なにかとんでもないことが起こるんじゃないか」と言いかえって安心することはないだろう。そしてそれは、他でもないわたし自身にも移っていた。これだけ事が起こると、何を見ても他人事のように思える。何百キロ向こうで人が人に殺された。そんなことを言われても、わたしには関係のないことだと思ってしまう。それを愚かな思考だと言うのが、「明日は我が身」という言葉なのだろう。
ここへ来て新聞を知ったときは、もっと驚いていたと思う。「こんなことがどうして起こるんですか」というような内容をお母さんに尋ねたこともある。けれど彼女は、彼女たちは、口を揃えて「ほんとよね、怖いわあ」と言って、また何か別のことを始める。そんな事件と自分は、一切の無関係だと言うように。
別に、彼女たちが薄情なわけではないのだ。そして何も悪くない。殺された人や死んでしまった人を慈しんでいるし、犯人には少なからず怒り、そして恐怖を抱いている。しかしどこかで、わたしも、自分ではなくてよかったと安心している。これが人間の棲む世界で、わたしも、次第に慣れていった。
慣れ? 慣れなのだろうか。学んでいるというのは違うけれど、慣れというのも少し違う気がする。起こっているのは当たり前のことで、そしてそれは不変的なものだ。この世界の警察というのは、かなり洗練された組織だと思う。聖域にも国衛軍や準国事隊のような組織があったが、これには敵わない。その警察が、毎日のように悪事を働いた人間を捕まえ、国はかなり厳格的な方法でそれを裁いている。時には見せしめ的な場合もあるものだが、それでもこの世から犯罪は消えていかない。そもそも人々は、聖域でもそうだけれど、平等ではないのだ。隣の芝は青く、周りを見れば自分は最も恵まれていない存在に見えることさえある。その不平等を警察では裁くことができない。これは政治的にも不可能だ、資産をみんなで分け合っても、劣等感は必ず何からでも生まれる。それこそが犯罪の根本的な原因であるだろう、そうである限り、この世から犯罪は消えない。
こうした思考に因われて、この世界の醜い部分に嫌気が差し、いま自分の置かれている状況にまで不安を感じてしまうことがある。そうしたとき、わたしは楓の祖母の言葉を思い出す。
「世界を救おうだなんて考えなくていいから、自分自身が気をつけることで、なんとか自分だけは守りなさい」
祖母だって、別に冷酷な人間というわけではない。これは長くこの世界で生きて、きっとわたしのように悩み続けて、やっとのことで行き着いた答えなのだろうと思う。
あの見慣れた花畑を横切って、もう少しだけ歩くと、見慣れた町工場が見える。わたしは近くのベンチに腰掛けて、楓を待った。このベンチは、この工場の人たちが暇な時間を捻って、わたしのために作ってくれたものだった。優しさというよりは、いつも立って楓を待っているわたしを見かねたというのが正しい気もするけれど、このベンチに座ると身体と心が暖かくなる。
高校を卒業した楓は、すぐに就職をした。選択肢は多かったみたいだけれど、そこそこ近くすぐに働くことができるという理由でこの工場で働き始め、一年が過ぎていた。ベンチで座るわたしの耳に、聞き慣れた音が届く。終業の合図だ。わたしは立ち上がり、工場の出入り口から楓が出てくるのを待った。ぞろぞろと、作業着を身に着けた男たちが、疲れた顔をして出て来る。数分待って、ようやく楓が姿を現した。隣にはいつも一緒にいる同僚さんがいて、楽しそうに話をしていた。
「おい、楓くん。彼女来てるよ」
その同僚さんがわたしを見つけて、楓もわたしを見つける。二言くらい交わしてから、楓は小走りで駆け寄ってきた。
「おまたせ」
わたしはすかさず彼の手を握り、「帰ろっか」と微笑む。楓は繋がれた左手と、わたしの顔を交互に見て、照れくさそうにそっぽを向いた。後ろから楓を茶化すような声が聞こえてくる。わたしはくすくす笑って、楓は呆れたようなため息を吐いて、二人であるき出した。
もう何度も通っている道。電柱、電灯、田んぼ。最初は味気ないと感じていた風景も、煩いよりはずっとましなのかもしれないと思い始めていた。薄暗い道を歩く。楓は最初、迎えなんていらないと言っていたが、実はこうしてわたしが迎えに来ることを喜んでいる。それになんだか、わたしは彼のことが心配なのだ。いつしか楓は何も言わなくなり、こうして二人で帰宅するのが日課になっていた。
花畑を通りかかった時、ふと、気の遠くなるような道の先を見つめた楓が、そのまま無感情に口を開く。
「……あのさ」
「ん?」
「リーラは、帰りたくならないのか?」
風が止む。
ここに来て、こんなことを聞かれたのは初めてだった。リーラと呼んだのも、初めてかもしれない。いつもは彼がわたしに名付けた莉々という名で呼んでくるから。本当に、唐突な楓の態度に、雷を受けたかのように心臓が強く脈を打ち始めるのを感じた。いやな予感を覚えたときの感覚。わたしは思わず立ち止まった。
「……なに。帰ってほしいの?」
きっとそういった意味はないと分かってはいながらも、語気を強めて言う。繋がっている手をぐっと手前に引いて、歩き続けようとする楓を引き止めた。それは彼にとっては気まずいことのようで、わたしを見つめたかと思えば、そっぽを向いてしまう。三年前に出会った花畑に沿う道で、二人は立ち尽くしている。
「そんなわけないだろ」楓がこちらを向く。「俺は、俺にはこうして毎日帰る家がある。お前も、いまはうちに帰っているけど、本当の家じゃないだろ? 俺はずっとお前といるけど、実は何にも知ってないし、聞かされてない。だから、余計なお世話だと思われるかもしれないが、両親は? 友人は? 聖域に、リーラを待っている人はいないのか? うちの家族もきっとお前の帰りを待ってる。けど、ずっとここにいて、本当に大丈夫なのかって心配になるんだ。……ここにお前と来る度、そう思う」
彼は花畑を睨む。わたしもつられてそちらを見た。陽がないから、花々の様子はきちんと伺えない。けれど吹いてきた風に対して為す術もなく、傾いているのは見えた。わたしは、楓がそんなことを考えていたということに、少し唖然とした。楓はいつになく真剣に、いつになく真面目に、わたしに向って本音を言ってきた。
楓から投げつけられた言葉は、わたし自身、心の片隅に引っかかっていたことだった。わたしにも両親がいる。友人がいる。彼らはきっと、わたしのことをひどく心配しているだろう。当たり前だ、書き置きだけして、飛び出してきたのだから。だから帰らなければならない、顔を見せなければならない、当然のことだと、そう思う。でも普段はそれを、自分自身に対してひた隠しにして、考えないようにしてきた。誰も何も言わず受け入れてくれるから。楓もまた、何も言わないのだと思っていた。
「……お母さんも、お父さんも、みんな待ってると思うよ。わたしのことを忘れていなかったら」
歩みを止めたわたしが、自分勝手に歩き出す。着いてくる楓の手のひらから伝わる体温が、暖かいのか冷たいのか分からない。
「でもね、わたしは、楓とまだ一緒にいたいよ」
不安を感じさせるその手を、ぎゅっと握りしめる。楓は立ち止まって、困ったような顔をした。その表情と、その戸惑うような瞳に、わたしの心臓はぐっと締め付けられるような痛みを感じて、絞り出すような声で、まるで縋るように、
「楓はわたしに、帰ってほしいの?」
と、また聞いた。
知らず知らずのうちに俯いていたら、楓が屈んで、わたしの顔を覗き込んだ。
「そんなわけないだろ。一緒にいてほしい」
そう告げる楓の表情は、今度は真剣なもので、さっきの掴み所のない表情はどこかへと消えていた。その顔に、整った綺麗な顔に、わたしを見つめる曇りのない視線に、わたしは息を呑んだ。今まで楓がこんな風に、わたしに真剣な様子を見せてくれることはなかったから、わたしは言葉を発せなくなった。
また二人で歩き始めると、そこから家までには何の会話もなかった。けれど、二人はいまお互いのことを考えていて、握った手からそれが流れ込んでくるような気がする。
恋というのは果てしなく面倒で、信じられないほど厄介で、驚くほどわがままなものだ。ころころと、まるで一瞬で過ぎ去る季節のように表情を変えて、心を良い方にも、悪い方にも転がしてしまう。
わたしは、けれど、それが好きだった。




