第三十三話 .Lily
夕方、アリスの自室にサラが戻ってきた。
サラは二人がいることを確認すると、微笑みながら会釈をしたが、表情はどことなく落ち着いていなかった。リリーは椅子に腰掛けていて、サラに「おかえりなさい」と声をかける。アリスはベッドで寝転がったままだ。
「もう聞いているでしょうか。その、王室の」
扉の前に立ったままのサラがリリーに問う。
「はい、さっきまでそこにいました。メイドさんが見つけてしまったんですよね」
サラはリリーの応答を聞いて、視線を床に落とした。
「わたくしが行かせてしまったのです。新人なので、王室の掃除を教えようと思い、向かわせておいたら……とても悪いことをしました」
サラの声は床に落ちていくようにか細かった。アナに話を聞いてほしいと言った時、彼女はアナへの信頼故に、リリーの計画に対して苦い顔をした。アナは何もしていないと言いたかったのだ。その信頼は、なにもアナだけに向けられたものではなく、他のメイドに対しても向けられているものなのである。サラは自分の部下たちを信頼し、表面には滅多に出さないにしても、彼女たちを可愛がっている。故意でなくとも猫の死体を見せ、心を傷つけてしまったことを深く悔やんでいるのだ。
「サラさんは、悪くないです」
そう励まそうとしても、サラの表情は浮かないままだった。
「加えて……情けない話ではあるのですが、アナと会うこともできなかったんです」
「えっ。どうかしたんですか」
思わずリリーの腰が浮いた。連日の件がある、アナはこのところ落ち着いていなかった。もしかしたら何かあったのではと胸中がざわつく。
「……分からないのです。無断で休むことなど、今まで一度たりともなかったのですが。他のメイドに確認してみても。何も分かりませんでした。…………あの、リリー様、こんなことをリリー様に聞いてもしょうがないとは思うのですが、」サラは顔を上げて、今まで見せたこともないくらいに切ない瞳でリリーを見澄ました。「アナになにか、あったのでしょうか……」
リリーはしっかりした答えも口にできず、床の一点を見つめて固まった。アナはどうしたのだろう。今にもひょこっと現れて、愛嬌のある笑顔を見せてくれればそれで安心できる。でももし、危険なことに巻き込まれていたのだとしたら――。リリーは歯がゆい思いで唇を噛んだ。
「取り乱しました、すみません。……そちらは、どうでしたか?」
サラが尋ねてくる。リリーは顔を上げて、事の顛末を話した。
夕日に照らされていた室内が、段々と影に覆われていく。そんなに長い話ではなかったが、リリーは話し終えてひどく疲れた気がした。アリスが立ち上がり、カーテンを閉め電気をつける。二、三度点滅して、部屋が人工的な明かりに包まれた。
「彼に、そんなことが……」
話を聞き終えたサラはそう言って、何かを堪えるように目を瞑った。彼、とはヘイリーのことだ。
「七年前の猫事件と関わりがあるかどうかは不明ですが、今回のマクナイルとミカフィエルの事件はやはり関連してるんじゃないかと思ってます」
サラは頷いて、椅子に座り込む。表情が晴れることはない。元々静かな人ではあるが、今は目に見えて落ち込んでいて、話す気力もないように伺えた。思えば、サラはこの短い数日の間に、いくつもの懸念を抱えたことになるのだ。ヘイリーという男の子を預かり、彼はミカフィエルで愛猫を殺されていることが分かった。アナは何も言わずに仕事を休んで連絡も取れず、自分が王室に向かわせたメイドは、不幸にも猫の死体を発見してしまった。その連続に疲弊した表情で彼女は口を開く。
「わたくしは最初、正直に言ってしまえば、他人事だとしか捉えていませんでした。けれど、こうして身近に事件が立て続いてはじめて、けして他人事ではないと、気付かされました。もっと早く気がついて、もっと早く考えておくべきだったのに。……今言ったところで、なににもならないんですが」
彼女が自嘲するかのような声色で語ったのはやはり、リリーが考えたことのようだった。声をかけるか悩んで、結局なにも思いつかなかった。済ました顔をして、てきぱきと仕事をしているサラはそこにいなかった。顔を顰めて、眉を寄せて、手を何度も組み合わせているサラは苛々しているように見えて、変なことを言ったら怒られてしまうかもしれないと思ったのだ。
「今日は、戻ります」
サラが気を取り直したように立ち上がって出て行くのを見送って、リリーはまたアリスの部屋の椅子に腰掛ける――。




